偉大な使徒パウロは、私たちの内に与えられている聖霊について、それは計り知れない神の力であるということを、くり返し教えます。実際、彼はその力を生かして、あの素晴らしい神の働きを行いました。そこで質問です。私たちに与えられている聖霊と、パウロに与えられていた聖霊は別物なのでしょうか。そうではありません。ちがいはその計り知れない神の力を何のために使えば良いかがわかっているか、いないかのちがいです。
サウロ(後のパウロ)がダマスコ門に近づいた時のことです。突然、真昼の太陽よりも明るい、天からの光が彼を巡り照らしました。光の中から声がありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」復活されたイエスがサウロに現れたのは、教会を迫害する彼を責めるためではなく、この後、彼がなすべきことを知らせるためだったのです。ダマスコの町に入ると、アナニアというイエスの弟子が来て、サウロに手を置いて祈りました。すると、サウロの目からうろこのようなものが落ち、彼は聖霊を受け新たにされたのです。
どうしてイエスはペテロやヨハネにされたように、サウロに直接息を吹きかけ「聖霊を受けよ」と言われなかったのでしょうか。それは彼がこれから後、キリストの使徒となり、この福音を伝達していくために、すばらしい奥義を体験させるためでした。その奥義とは、聖霊を受け、御名を印され、キリストの内住・現存の体験を持っている使徒は、もうひとりのキリスト、キリストのからだであるという、すばらしい現実です。この現実を信じ、福音の前進のために大胆に行動することこそ、彼のなすべきことだったのです。さあ、私たちもこのすばらしい現実を信じて立ち上がり、福音の前進のために大胆に行動しましょう。