土の器

宮本牧師のブログ

心を断ち割って

アントニー・デ・メロ神父が書かれた『蛙の祈り』という題の書物があります。こんな話から始まります。
ある夜、兄弟ブルーノが祈っていると、蛙の鳴き声がうるさくて気が散り、祈ることができず、「静かにしろ、祈っているのだから」と一喝しました。すると、あたりはしんと静まり返ります。彼は祈りを続けました。すると、「生けるものはすべて固有の声を持っている。もしかして神は自分の祈りと同じくらい、蛙の鳴き声を喜んでおられるのではないか。いやそんなことはない。でも神はなぜ音なるものを作り出したのか」と考えました。すると、蛙の鳴き声は神経に障るものではなくなってきました。鳴き声に抗うことをやめると、この鳴き声こそが夜の沈黙をいっそう豊かにしていると気づき、彼の心は、生まれて初めて宇宙と調和し、彼は祈ることの内実をとらえた。
ブルーノの祈りは、まさに私たちの日常の思いなのではないでしょうか。自分の音のみを大切に気遣い、周りの音はすべて雑音、騒音でしかないと感じているのです。ヨハネ福音書17章に残されているイエスの祈りは、古来「大祭司の祈り」とか「もう一つの主の祈り」と呼ばれてきました。十字架の前夜、歴史の転換点となる激動の夜、イエスは気を散らされるような雑音と騒音の中にいたのですが、弟子たちに語るべきことを語った後、天を仰いで、天と地を抱きしめるような壮大にして、荘厳な祈りを始められました。宗教改革者のルターは、この祈りについて、「言葉に表せないほど、温かい、心のこもった祈りだ。キリストは、父なる神の前で、また、私たちの前で、その心を断ち割って見せてくださった。真実で単純、深淵で豊か、その広さはだれ一人測り知ることができない」と言っています。この祈りを何遍も声に出して祈りましょう。

3月の終わりから、大阪の堺にある教会に移ることになりました。京都での4年の働きをふり返りながら、「時が来ました」と祈り始められるイエスの祈りに心を合わせています。