土の器

宮本牧師のブログ

美しい門

聖書の中に登場する有名な「門」と聞いて、使徒言行録の3章に出て来る「美しい門」と呼ばれたエルサレム神殿の門を思い出される方もあるかも知れません。ペンテコステの直後、聖霊に満たされたペトロとヨハネが生まれながら足の不自由な男を癒した奇跡の舞台です。この「美しい門」の場所については、それが神殿にあるいくつもの門のどの門であったかはよくわかりません。たぶん、神殿境内のニカノル門と呼ばれる、真ちゅうで作られた門であったであろうと言われています。 聖書にはこう書かれています。「ペトロとヨハネが、午後3時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。」リビングバイブルでは、2節が「もうすぐ宮だという所で、生まれつき足の不自由な男が運ばれて来るのに出会いました」と訳されています。サムエル記下5章を見ると、神殿に目や足の不自由な者が入れなくなった事件が出てきますが、使徒言行録3章に登場してくる人物も例に漏れず、神殿の外に置かれた存在だったのです。 私たちの現実は、もうすぐ宮だという所まで来て、それ以上先に進むことができない状態ということかも知れません。神殿とは、生き生きとした神の現存にあふれる場所です。もうすぐそこに入れるというところまで来て、それ以上進むことができないとは何と残念なことでしょう。 ヨハネ福音書の10章には「門を出入りして」とありましたが、門を出入りするとは、イスラエルの人々にとって、それは日々の暮らしを表し、生きるということを意味していました。朝、門から自分の家を出て、夕べに門から家に入ることが、人生だと考えられていたのです。詩編121編に、「主はあなたの出ると入るとを守られる」と歌われているのも同じ意味です。 「健康とは、身体的にも、精神的にも、社会的にも完全で良好な状態にあること」とWHOが提唱しますが、この完全で良好な状態とは、まさにキリストという美しい門を出入りする人、神の現存の中に生きることなのです。さあ、イエス・キリストという美しい門を通って、神の神殿の中に入って行きましょう。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。」感謝しつつ主の門に、賛美しつつ主の大庭に入れ! 今年のカレンダーでは、次の日曜日から待降節アドベント)に入ります。クリスマスまであと1ヶ月。