土の器

宮本牧師のブログ

方法に窮する勿れ

先日も書いたNHK連続テレビ小説「あさが来た」で話題の広岡浅子さんが書かれた文章を読みました。彼女がクリスチャンになった後、九転十起生というペンネームで一年に渡りある週刊誌に寄稿した「一週一信」という文章です。改革の根源はクリスチャンの覚醒にかかっていることを痛感した彼女は、教会と信徒に向かって弾丸のような言葉を投じました。「方法に窮する勿れ」という一文を紹介します。少し言い回しが難しく感じられるかもしれませんが、ゆっくり味わってください。 今日のキリスト教会が割合に発達しないということの原因はどこにあるのであろうか。 もしも自分の見るところを言うことを許してもらうならばこう言いたい。我々銘々の人格品性が、今一段神の霊に満たされないということに帰省すると思う。言葉を換えていうならば、我らが神を憧憬し、救い主の十字架の意義をモット明瞭と自覚せないためであると思う。それ故に多くの場合我らはいかなる工風をもって伝道しよう。いかなる方法をもって人を救おうということの詮議が余りに多過ぎることになる。もちろん今日の場合、これを見逃すことはできないのであるが、まず第一にすべきは個々銘々が充たされることである。 私の考えることは、使徒行伝3章に示されてある足なえが立って歩んだという記事のところに、ペテロが「金銀は我になし、ただわれに有るものを汝に与う、ナザレのイエス・キリストの名により起ちて歩め」云々というところと、4章の34節に「その中一人も窮乏者(ともしきもの)なかりき。その地所あるいは家を有(もて)る者は、それを売りてその売りし所の値を持ち来たり、使徒らの足下に置く、これを各々の用に従いて分け与えしが故なり」云々とあるところの精神は、今日の教会に欠いている心ではあるまいかと思う。経済思想の発達した今日から見るならば、馬鹿らしいことのように見ゆるかも知れないが、しかしこの偉大なる精神は今日の我らの深く記憶に止めなければならないところである。我らはペテロの如く「ナザレのイエス」を我が懐に持つことによって、初めて伝道心もできれば、またそれに従って方法や金銭は与えらるることを信じて疑わない。我らは決して使徒行伝のこの記事を幼稚なる昔の事と思うことはできない。神に充たされることによって、我らは方法を与えらるるのである。 ・・・要するに我らが神の霊に充たされるかどうかという問題に帰着する。それさえできておれば、起つ時には必ず与えられて余りある事業ができる。・・・今日伝道が思わしくないとか、教会が発展しないとかいうことを聞くのは、方法を先にし、苦心の第一に金銭を置くようなことが大分にその原因をなしてはいまいか。我らは方法を第二とし、モット霊的充実のために大いなる苦心をなす必要はないか。 今日は午前中、松阪での聖書講座、午後から聖歌隊の有志が京都へ行きます。