土の器

宮本牧師のブログ

上げられねばならない

モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子(イエス・キリスト)も上げられねばならない。」上げるという言葉を、十字架と関連させるのも、ヨハネ福音書のこだわりです。しかも、ここでは「ねばらない」と言うことですから、偶然ではなく、神の必然において、そうならなければならないことが強調されています。キリストの十字架、それは人が新たに生まれるために、神の側では必然の出来事だったのです。「それは、信じる者が皆、人の子(イエス・キリスト)によって永遠の命を得るため」でした。 神に逆らい、禁断の木の実を食べたアダム以来、すべての人はあの蛇の毒によって、罪のうちに死ぬ者となってしまいました。それが原罪、三浦綾子さんの言う「氷点」であり、ニコデモの心にあった「夜」だったのです。しかし、荒れ野で蛇に噛まれ、焼けるような痛みにのたうち回っていた人々に福音が伝えられました。「あの竿に掛かっている青銅の蛇を仰ぎなさい。そうすれば救われる。」それを聞いた人々の反応はどうだったでしょうか。ある人々は、「とんでもない。そんな非科学的で迷信じみたことをどうして信じられるだろう」「そんなバカなことはない」と言いました。そして高く掲げられた旗竿を仰がなかった人々は荒れ野で死んで行きました。しかし、藁にもすがるような思いで、天幕から這い出し、単純に、素直に、旗竿の上に掲げられた青銅の蛇を仰いだ人は命を得たのです。聖書は言います。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たちに救われる者には神の力です」と。 十字架を見上げれば救われるというのは、余りに簡単すぎで、馬鹿げたことでしょうか。しかし、神の子であるキリストが、私たちのために、私たちが受けるべき罪の呪いを受けてくださったとするなら、毒をもって毒を制してくださったとするなら、ここに救いが、罪の赦しが、希望があるのではないでしょうか。今日、私たちも辻口に立って、もう一度、素直な心で十字架を見上げましょう。そして、あなたの心にもある眠られぬ夜を、光に変えていただこうではありませんか。 次の日曜日、聖歌隊京田辺市の福音教会でもたれるチャペルコンサートで歌わせていただくことになっています。お近くのみなさんがいらっしゃいましたら、ぜひお出かけください。名古屋教会の礼拝も通常通り行われます。ぜひお出かけください。週末も大切なことを大切に。