土の器

宮本牧師のブログ

対話

藤の美しい季節ですね。愛知県のHPを見ると、江南と津島が藤の名所のトップに紹介されていました。先週のことですが、その江南の曼陀羅寺公園の藤を再生させた樹木医の塚本こなみさんがテレビに出ているのを見ました。番組では、フラワーパークを再生させていく塚本さんの経営手腕が紹介されていたのですが、私は、ものを言わない樹木の声を聴き、対話するという塚本さんの姿勢に感動し、大切なことを教えられたような気がしました。 聖書は神の言葉ですが、印字された本なので、実際に語りかけてくれる訳ではありません。教会では(特に私は好んで)そういう表現を使うのですが、実際に音声が聞こえてくることはないのです。私たちにとって、大切なことは、物言わぬ聖書の声を聴き、対話することです。「主よ、お語りください」と祈りつつ聖書を開き、聖書が語りかけてくるのを待ち、対話を始めます。ヨハネ福音書の特徴の一つが「対話」です。ヨハネが描くイエスは、大ぜいの前で説教するイエスではなく、個人に語りかけ、対話されるイエスです。 ヨハネ福音書が伝える最初の1週間の5日目の出来事です。その日も、二人の新しい弟子がイエスに従い始めました。フィリポとナタナエルです。ナタナエル(バルトロマイ)は、フィリポによって導かれます。フィリポはいちじくの木の下にいたナタナエルを見つけ、「来て、見なさい」と、彼をイエスのもとに導きました。そこからイエスとナタナエルとの対話が始まります。この箇所で大切なのが、実は「いちじくの木の下」です。今のように印刷された聖書がなかった時代、ユダヤ人はシナゴグ(ユダヤ教の会堂)でラビから聖書を学びました。その大半が聖書の暗唱に費やされ、ユダヤ人たちは、羊皮紙の巻き物に書かれた聖書が朗読されるのを聞いて、それを耳で覚えたのです。そして、ある書やある章を暗記すると、その内容を黙想するようにラビから教えられました。その黙想と祈りに最適の場所と考えられたのが、いちじくの木の下だったのです。有名なラビ・アキバも、いちじくの木の下で熱心に御言葉を学び、真理を求めたと言われています。ですから、ナタナエルがいちじくの木の下にいたと言うのは、彼の生活と信仰をよく表していました。彼はそこで黙想と祈りの生活をしていたのです。もっと言えば、彼はそこで主を慕い求めていたのです。 今週も大切なことを大切に。