土の器

宮本牧師のブログ

告白

十字架の前夜、イエスがいなくなってしまうということが語られると、動揺する弟子たちが次々に発言します。まず「どこへ行かれるのですか」と言うトマスの咄嗟の問いかけが、イエスの口から偉大な啓示を引き出しました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父(神)のもとに行くことはできない。」イエスが語っていると、今度はフィリポという弟子が尋ねます。「主よ、わたしに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と。「御父をお示しください」、言葉を換えれば、「神を見たい」との願いは、聖書が教える人間の根源的、究極的渇望です。 詩編42編は、そんな人の心にある神への渇きを歌った代表作です。「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか。」この後、詩人は「お前の神はどこにいる」と訴える人々の声を聞きながら、神に見捨てられたような現実の中で、次のように叫びます。「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう。「御顔こそ、わたしの救い」と。 まるで一人の人のうちに二人の人がいるようです。うなだれている自分に語りかけているのは誰でしょうか。「神を待ち望め」と言っているのは誰でしょうか。それは彼自身です。ほんとうの自分が叫び出して、どんな逆境にも振り回されず、「神を待ち望め」と言っているのです。現実には思い悩みます。窮地に追い込まれればうなだれて心が乱れます。でもその時に、ほんとうの自分が目覚めて、神を慕い求め始めるのです。 古典的キリスト教文学の名作『告白』を著した聖アウグスティヌスもその本の冒頭にこう記しています。「神よ、御身は御身のために私たちをつくられました。私たちの心は、御身の中に安らうまでは、安らうことがありません。」 イエスの弟子フィリポの叫びも同じです。「わたしたちに御父を(神を)お示しください。そうすれば満足できます。」詳訳聖書は、「それが私たちの願いのすべてです」と訳します。神を見たい。それが私たち人間のうちにある真実な渇きなのです。 そこでイエスは言われました。「わたしを見た者は、父を見たのだ」と。イエス・キリストこそ、人間を神に導く唯一の道であり、絶対不変の真理、真実の神、永遠の命です。ヨハネ福音書のはじめに記していたとおりです。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神(イエス・キリスト)、この方が神を示されたのである。」イエス・キリストこそ、父のふところにいる独り子の神、この方が神を目に見えるように示されました。キリストは父のふところにいるので、私たちをまちがいなくそこに導くことができるのです。 聖イエス会では、11月23日の勤労感謝の日を「健康感謝の日」と定め、その前後の日曜日に「健康感謝礼拝」を行っています。名古屋教会では次の日曜日がその礼拝になります。この一年、健康な時も、病気の時も、守られ支えられてきたことに感謝しましょう。