土の器

宮本牧師のブログ

使い古した雑巾

2枚の雑巾があります。新しい雑巾と、使い古した雑巾です。どちらがきれいですか? もちろん、新しい方です。では、どちらが貴いですか? どちらに「ありがとう」と言いたいですか? 使い古した雑巾の方ではないでしょうか。なぜそう思うのでしょう。きれいでもない。だれも欲しがらない。いつ捨ててもいいのに、でも何か貴く、ありがたい。それは、あなたの代わりに汚れ、あなたの手を守って傷ついたからです。

汚れには2種類あります。まず自ら汚れた汚れです。人を憎んだり、ねたんだり、いじめたり、いじめを見て見ぬ振りをしたり、人の悲しみに無関心だったり、年齢と共に心の中に積み重なった見えない汚れです。もう一方で、元々はきれいだったのに、他者の汚れを拭き取って身に着けた汚れがあります。本当は他人の汚れなのに、その汚れを拭き取ったために汚れ、本当はある人が受けるべき傷なのに、その人を守るために受ける傷があるのです。

エスはその究極の愛を伝えるために、死ぬ直前、弟子たちに体験授業を行いました。それが洗足です。それは弟子たちにとって、忘れられない原体験となりました。この体験を土台に、弟子たちは十字架上で死なれたイエスの姿を目撃します。傷だらけ、血だらけのその姿を。やがて弟子たちは気づきます。「彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ」と。

十字架は本来、醜く、恐ろしい、目を背けたくなるものです。しかし、それは私たちの最大の汚れ、どんなに石けんで洗っても取ることができなかった罪という汚れを拭い取ってくれたからだったのです。「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」