マタイはキリストの生涯を書き始めるにあたり、キリストに先駆けて登場し、まるでキリストが土俵にのぼる呼び出しをするように現れた人物を紹介します。それがバプテスマのヨハネです。バプテスマのヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯で、罪の赦しを得させる悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていました。彼の存在と活動は、当時の社会現象となり、多くの人が彼のもとに集まって来ました。預言者のように語る彼のメッセージは決して耳に心地よいものではなかったはずですが、人々の魂を揺さぶり、その心に刺さったのです。
ある人が言ました。「現代の教会には、聖書を教える教師はいる。信徒を愛する牧師もいる。福音を語る伝道者もいる。でも預言者がいない」と。確かに、「あなたはありのままで愛されています」というメッセージが好まれる時代です。心の奥にある罪を鋭く指摘し、悔い改めを迫るメッセージは好まれません。でもほんとうにそれでいいのでしょうか。バプテスマのヨハネが荒野で、罪の赦しを得させる悔い改めのメッセージを語ると、人々は荒野の彼のもとに集まり、彼の言葉をまるで神の声であるかのように聞いたのです。まさに彼は「荒野で叫ぶ者の声」でした。ある英語の聖書では、この「声」を「サンダー(雷鳴、轟き)」と訳しています。聖書は神の言葉です。聖書が、単なる言葉(文字)ではなく、声となり、私たちの内側で雷鳴のように轟き渡るとき、私たちの人生も変えられます。
神の言葉が荒野にヨハネに臨んだ。「悔い改めよ。天の御国は近づいたから。」「悔い改め」とは、後悔することではなく、神に背を向けて歩いていた人たちが、方向転換して神に帰るという意味です。「荒野で叫ぶ者の声がする。……主の通られる道をまっすぐにせよ。」一直線に、神に帰れ。
暑中お見舞い申し上げます。
酷暑になっていますが、お身体を大切にお過ごしください。