サマリアの女が毎日井戸に水を汲みに来ても、すぐに空っぽになってしまう水がめ。それは彼女の満たされない心を象徴しています。人間には本能的に二つの渇きがあると言われます。肉体の渇きと、霊魂の渇きです。オウガスチヌスという神学者は、著書「告白録」の冒頭にこう記しました。「神よ、あなたは私たちをあなたの向かうように創られました。それで、私の心はあなたのうちに憩うまで、真の安き(満足)を得ないのです。」もちろん、生活の道具としての水がめはこれからも彼女には必要でした。しかし、満たされない心の象徴としての水がめは、いのちの泉であるキリストと出会った今は、もう必要なくなったのです。彼女は、水がめをそこに置いたまま、自分の身に起こったことを伝えるために町の中に入って行きました。
私たちも、キリストのうちにいのちの泉を発見した女が、水がめをそこに置いたまま町に行き、「この方がキリストなのでしょうか」と証ししたように、私たちも誰かに、キリストを伝えましょう。このあと、サマリアの町にリバイバルが起こります。これは、福音が「エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで」広げられていくという宣教学の観点から言えば、世界宣教のはじめの一歩でした。ことの発端は、サマリアの井戸のほとりにおけるイエスとこの女との出会いです。
いのちの泉である神に出会った婦人は、水がめをそこに置いたまま町に走って行き、「来て、見てください。……この方がキリストかもしれません」と宣教の第一声を上げたのです。町の人たちは、彼女の話を聞いてイエスのもとへとやって来ました。キリストには見えていたのです。サマリアの女の向こうに、彼女を通して導かれるサマリアの人たちが。キリストは見ておられます。あなたの向こうに、あなたを通して導かれる多くの人たちを。