土の器

宮本牧師のブログ

かもしれません

作家の三浦綾子さんが、聖書の中に出て来る女性の中で、だれが好きかと尋ねられると、ためらわず「サマリアの女」と答えるという話をしましたが、それは彼女が人目を避けて生活していた罪深い女性であったと言うことと、自分の過去がかぶるから、親近感を覚えるということでした。でも、もう一つ理由があると言います。彼女が海千山千のように見えながら、実にお人よしでオッチョコチョイなところです。イエスに、自分の乱れた生活をズバリと言い当てられて、ハッと驚き、自分が水を汲みにきたことも忘れて、たいせつな水がめをそのままそこに置き、町に行って、イエスのことを言いふらしたのです。だれにも顔を会わすことのできないほど、肩身をせまくしていた彼女が、まだ自分も確信していないうちから、「もしかしたら、この人はキリストかもしれません」と言いふらしたのです。 三浦さん自身、まだ信仰に入る前、闘病生活を送っていた頃、牧師を呼んで話を聞こうと病院で聖書研究会を始めたそうです。そして、わずか数カ月で、のちに4人の信者が誕生したと言っています。三浦さんは言います。「私が僚友たちに呼びかけたのは、サマリアの女と同様、『あるいはこの人がキリストかもしれません』という、はなはだあやふやな状態であった」と。 あやふやな状態でも、「かもしれない」でもかまいません。それでも用いていただけるから不思議です。このあと、サマリアの町にリバイバルが起こります。これは、福音が「ユダヤサマリアの全土で、また地の果てに至まで」広げられていくという観点から言えば、世界宣教のはじめの一歩でした。ことの発端は、サマリアヤコブの井戸のほとりにおけるイエスとこの婦人との出会いでした。いのちの泉である神に出会った婦人は、水がめをそこに置いたまま町に走って行き、「さあ、見に来てください。この方がメシアかもしれません」と宣教の第一声を上げたのです。 私たちはいのちの泉である神のもとに帰りましょう。キリストに出会い、キリストを再発見し、救いの喜びを新たにしましょう。