土の器

宮本牧師のブログ

リアル

私たちにとってキリストは非現実のもの、ファンタジーにはなっていないでしょうか。そして、それでよいのでしょうか。ある牧師先生が開拓伝道をはじめる経緯を書いている文章を読みました。 50歳を意識し始めたころ、残りの人生もこのまま過ぎていくのだろうかと不安を感じるようになりました。私は、自分の信仰にリアリティを失い始めていました。 心を尽くして主を愛し、主に仕えているという喜びにかげりがありました。信仰の熱情にあふれるようには湧いてこないのです。主が共にいてくださるとリアルに感じることができません。神様との深いつながりから力を受け、自分を越えた業をなしているという実感がありません。多忙な日々を送っているようでも、中途半端に時間やエネルギーをつぎ込んでいるだけで、主の御手が働いているという手応えがなかったのです。 私は、「今までと同じように絶対に歩んではならない。今までと同じような生き方であってはならない。このままで人生の終わりを迎えてはならない」と、切実に感じました。「残りの人生で、何としても今まで以上の神の栄光を見たい。まさしくこれは信仰によってなったことだ。これは神だ。とても私にできることではない。神がなされたんだ、と心から感動にあふれて叫ぶような瞬間を体験したい」と思いました。 長年の同労者である妻に、こう語りました。「神に愛されていることは確信している。しかし、それを実感したい。聖霊に満たされていることは信じている。しかし、それを現実的に体験したい。神の臨在を確信しする。しかし、それをもっと現実に感じたい。神が全能であることを信じる。しかし、それを実体験したい。どのようにであるかはわからないが、とにかくリアルにわかりたい。」 「えっ、そんなことが体験できなくなっていたの」という反応ではありませんでした。妻も同じ思いでした。 もちろん、たとえ実感できなくても体験できなくても、背後で静かに働いておられる神を信じます。しかし、信仰とは実感や体験が伴わなくてもいいものだとは決して思いません。信仰生活とは、もっと現実に喜びに満ち、躍動感にあふれたものだと信じます。 今年の待降節、神のリアリティを求めましょう。