土の器

宮本牧師のブログ

その道の者たち

『道ありき』『この土の器をも』『光あるうちに』と言えば、作家三浦綾子さんの自伝小説三部作です。この作品も、日本人にとっては、たいへん優れた信仰のガイドブックではないかと思っています。 第一部となる『道ありき』は、「私はこの中で、自分の心の歴史を書いてみたいと思う」という一文で始まります。それは昭和21年、日本が戦争に敗れたばかりの時でした。17歳の時から軍国主義の教師として小学校の教壇に立ってきた堀田綾子さんは敗戦によって、これまで生徒に教えてきたことをすべて塗り替えなければならない、虚しい日々を送っていました。虚無感を抱きつつ、やがて結婚を決意しますが、結納が届いたその日に貧血で倒れ、間もなく肺結核を患い、13年にも及ぶ長く辛い闘病生活を強いられることになります。虚無に陥り自殺まで図った彼女が、生きる希望を取り戻すに至ったまでの道、『道ありき』では三浦光世さんと結婚するまでのことが書かれていますが、そんな綾子さんの青春の物語です。 この本の扉の所に記されているのが、ヨハネによる福音書14章6節、「我は道なり、真理なり、生命なり」という言葉です。これはイエス・キリストが語られた言葉ですが、まさに「道ありき」です。ところで、「道」という言葉を辞典で調べると、実に多くの意味があることがわかります。特に日本ではその精神性が重視され、生きることと深く関係付けられています。松尾芭蕉の「おくの細道」は有名です。京都の銀閣寺の近くには「哲学の道」というのもあります。花の道「華道」と言い、お茶の道を「茶道」、剣の道を「剣道」、柔の道を「柔道」と呼びます。一つの物事を通じて生き様や真理を追究し、それを体現することや自己の精神の修練を行うことを道と呼ぶわけです。興味深いことですが、聖書を見るとクリスチャンがクリスチャンと呼ばれる前、「その道の者たち」と呼ばれていたことがわかります。そこで、信仰の道を求めることを「求道」と言います。ですから、私たちは求道者です。これはキリスト教初心者の呼称ではなく、聖書を学び、信仰の道を尋ね求めるすべての人の呼称です。今週も信仰の道を尋ね求めようではありませんか。 今週も大切なことを大切に。