土の器

宮本牧師のブログ

一つの群れとなる

キリストの言葉は続きます。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」キリストが命を投げ出した目的がここで明らかにされていきます。「この囲いに入っていないほかの羊」とは、神とアブラハムとの契約の外にいた私たち異邦人のことを指し、「一つの群れになる」とは、キリストのもとに集まる真の教会のことです。 十字架に向かって走り出したキリストは、良い羊飼いの譬えの中で、すでにこの壮大なビジョンを語っておられたのです。また、同じ文脈の中で、「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。・・・わたしは自分でそれを捨て・・・それを再び受けることもできる」と、十字架の死と復活にまで言及しています。実に驚くべき神の救いのご計画の全貌が明らかにされているとは、「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」です。「だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。しかしあなたがたは、以前には遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」 サムエル記下の9章に、ダビデ王がサウルの子ヨナタンの息子であるメフィボシェトを、自分の食卓に招く物語があります。友であるヨナタンの息子が生きていることを知り、ダビデは彼を捜します。両足の萎えた男でした。ダビデは王の前に引き出され、震えているメフィボシェトに優しく語りかけます。「恐れることない。あなたの父ヨナタンのために、わたしはあなたに忠実を尽くそう。あなたはいつもわたしの食卓で食事をするように。」予期せぬダビデの言葉にメフィボシェトは戸惑いながら言いました。「僕など何者でありましょう。死んだ犬も同然のわたしを顧みてくださるとは」と。以来、メフィボシェトは王子の一人のように、ダビデ王の食卓で食事をしたのです。 失われたものをとことん捜して、王子の一人のように、その食卓に連ならせてくださる、神の恵みに感謝します。神の家族となり、王の食卓に着くのに、何の資格もない者でしたが、キリストは天から降って来て、私たちに命を得させ、豊かに得させてくださったのです。 12月になりましたが、12月の礼拝はクリスマス特集です。 ぜひ、教会でほんとうのクリスマスをお過ごしください。 礼拝は毎週日曜日朝10時半から。普段着のままお出かけください。