土の器

宮本牧師のブログ

王の食卓に招かれた

聖書の中で私のお気に入りの食卓があります。それはサムエル記下9章に記されているダビデ王の食卓です。 以前、キリスト教の雑誌にリーランド(Leeland)というCCM(コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック)のグループの歌う「Carried To The Table」という曲のことが紹介されていました。 ぼくは王の食卓に招かれた。ぼくの居場所ではないところに座らされた。 ぼくの食卓に招かれたんだ。ぼくの過去は神の愛で全て取り払われた。 ぼくが主の食卓の席に着いたときに、ぼくはもはや自分の破れやほつれを目にしなくなった。 ぼくは王の食卓に招かれた。主の食卓に。 リーランドは、ライブでこの曲を歌う前に、ダビデ王が足の不自由なメフィボシェトを王の食卓に招き、受け入れるというサムエル記下9章の記事から、こんな話をするそうです。「自分自身も壊れた存在だったけれど、神に受け入れていただいた。そして自分の弱さを見続けなくてもよくなった」と。 サムエル記の記事によるとキリストのシンボルであるダビデが、サウル王の子ヨナタンの息子であるメフィボシェトが生きていることを知り、彼を捜し出します。彼は両足の萎えた男でした。ダビデは恐れで震えているメフィボシェトに優しく語るのです。「恐れることない。あなたの父ヨナタンのために、私はあなたに忠実を尽くそう。あなたはいつもわたしの食卓で食事をするように。」予期せぬ王の言葉にメフィボシェトは言います。「僕など何者でありましょう。死んだ犬も同然のわたしを顧みてくださるとは」と。以来、「メフィボシェトは王子の一人のように、ダビデの食卓で食事をした」と書かれています。 失われたものをとことんまで捜して、家族として、王子の一人のように、その食卓に連ならせてくださる、神の恵みに感謝します。 今日から京都で春の聖会が始まります。主の祝福を祈りつつ。