土の器

宮本牧師のブログ

パンの講話

ヨハネによる福音書の6章の後半には、パンの奇跡の翌日(海上歩行の出来事をはさんで)、カファルナウムの会堂でなされた「パンの講話」と言われる長い説教が記されています。人々はイエスを捜してカファルナウムまで来ました。彼らがイエスを求めて来たのは、パンのしるしを見てイエスがメシアであると信じたからではありませんでした。パンを食べて満腹したからでした。そこでイエスはこの機会を捉えて、命のパンについて語られます。これは4章において、シカルの井戸のほとりで、一杯の水をきっかけに命の水について語られたのと同じです。あの時も、イエスの話を聞き、まだその真理を理解したのではありませんでしたが、サマリアの女は「その水をください」と言いました。パンの講話でも、ユダヤ人たちは「そのパンをください」と言います。 さて、聖書の中で、パンとは単に食物という意味だけではなく、霊的な意味で満ちたものです。サレムの王メルキゼデクは、アブラハムにパンとぶどう酒を与えて彼を祝福しました。出エジプト記では、エジプトを出る前夜、神はイスラエルの民に種を入れないパンを食べるように命じられました。荒野で神がイスラエルの民に与えた天からのパンはマンナと呼ばれました。さらに神の臨在のシンボルとなる幕屋や神殿の聖所には、供えのパンのための机が配置されました。これらのパンのすべては、メシアであるイエスを予表するものでした。そのような背景のもとに、イエスは「わたしが命のパンである」と、この意味深長な説教の中で宣言されるのです。 今日は岐阜の先生方と、春の遠足の打ち合わせをさせていただきました。 今週も大切なことを大切に。