土の器

宮本牧師のブログ

同じ霊的な食物を食べ

パンの奇跡の翌日、パンを求めて来た人々に、イエスは永遠の命に至るパンを求めるように勧めました。ユダヤ人たちは、当然のように、それをいただくためにどの神の業(モーセの律法)をしたらよいですかと聞き返します。そこでイエスは「神がお遣わしになった者を信じること、それがただ一つの神の業である」と教えられました。ところが、ユダヤ人たちは、さらに尋ねます。「私たちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。メシアは第二のモーセと呼ばれますが、あなたが来たるべき預言者モーセ)であるなら、証拠を見せてください。私たちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」と。 イエスはくり返して、目に見える地上のパンから、目に見えない、私たちの魂を生かす霊的な、天からのパンについて話されます。ユダヤ人たちは「天からのパンを彼らに与えて食べさせた」と詩編78編を引用してパンを要求しましたが、イエスは「モーセが天からのパンを与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」と語られます。確かに、詩編78編で「与えて食べさせた(マナを降らせ、食べさせてくださった)」の主語は神であって、モーセではありません。彼らが「そのパンをください」と言うので、イエスははっきりと言われました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と。ユダヤ人はパンを降らせてくださいとしるしを要求しましたが、イエスはここで、天から降って来て、世に命を与える神のパンである私こそ、神が与えられる最大のしるしであると語っておられるのです。 話しは替わりますが、聖書はモーセに率いられてエジプトを出た民についてこんなことを言っています。「わたしたちの先祖は皆、・・・同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました」(?コリント10:1-3)と。この「同じ霊的な食物を食べ」という経験が、イスラエル共同体を形成し、やがてキリストの体である教会を形成して行きます。つまり神の家族がつくられたのです。考えてみると、聖書の中に、食事の場面が多いのは、そのためなのかも知れません。アブラハムは神の使いとも知らずに旅人をもてなし宴を設けました。出エジプトの物語では、過越の食事が描かれています。福音書を読めば、最後の晩餐は有名ですが、マタイやザアカイ、ラザロの家でも食事会が開かれています。放蕩息子の譬えなど、宴会を話題にした譬えも多くあります。それは神の家族を作りたいという神の願い、神の招きではないかというのは、私の読み込みすぎでしょうか。いいえ、イエスはあなたも神の家族になってほしいと願っておられるのです。 今週も大切なことを大切に。