土の器

宮本牧師のブログ

羊と山羊

マタイ福音書の25章に記されている三つの譬え話の最後は、羊と山羊の譬えと呼ばれるものです。しかし、実際に羊と山羊の仕分けについて語られているのは、初めの部分だけで、記事全体は「最後の審判」に関するものです。ミケランジェロの「最後の審判」を思い出せるでしょうか。審判者なるキリストの前に集められた人々が二つに選り分けられる様子が描かれた、ミケランジェロ渾身の作品です。それは、それは厳粛な光景です。 選り分けられると言うからには、それまで長い間、羊と山羊は混じり合っていたということです。それは、一つの畑に良い麦と毒麦が生え、一つの網に良い魚と雑魚がかかり、また、一つの家の門前で、賢い女と愚かな女が花婿の到着を待ち、一つの家に忠実な僕と不忠実な僕が主人の帰りを待っていたのと同じことです。終わりの時に、中間はなく、右か左かにより分けられてしまうのです。そして、ここでは、その決め手が、人に示したあなたの愛と優しさであると言うのです。 もちろん勘違いをしてはいけません。救いの条件は、キリストへの信仰です。だれでもキリストを信じることで救われます。いいえ、キリストを信じることなしに、救いはありません。ここで言われている兄弟愛とは、救いの根拠ではなく、その人が救われていることの証拠です。これは「最後の審判」という法廷の描写ですから、その判決には証拠が必要です。審判者であるキリストは、その判決の証拠を列挙されたのです。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」と。 朝から蝉の鳴き声がすごいです。今日も暑くなりそうですね。