土の器

宮本牧師のブログ

キリストになる

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。」 偽善という言葉は、別人を装うということで、役者とか仮面をかぶるという意味です。彼らは人からよく見られることを好みました。そのすることは、すべて人に見せるためであって、シェマーを入れる箱をわざわざビッグサイズで作り、衣の四隅に着ける紐はできるだけロングサイズにし、会堂では講壇に座り、広場では「先生」と呼ばれることが大好きでした。外側ばかり繕って、「白く塗った墓」とさえ呼ばれたのです。しかし、聖書は何と言っているでしょう。少年ダビデが召される場面で語られた言葉です。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」 インドの詩人タゴールは言いました。「あなたたちキリスト者が、キリストのように生きれば、インド全体はキリストを信じるだろう」と。どのような場面でこの言葉が語られたかは不明ですが、彼はキリストを尊敬していたようです。キリストを待ち望んでいたと言ってもよいかもしれません。しかし、キリスト者には失望していたのでしょうか。いいえ、期待していたのでしょう。私たちの生活はどうでしょうか。毎週礼拝に通っていても、聖書を読んでいても、敬虔さと熱心さを装っていても、キリストのように生きてはいない現実。それではファリサイ派の人々とたいして違わないのです。イエスは言われます。だから、「杯の内側をきれいにせよ(キリストで満たせ)。そうすれば、外側もきれいになる(キリストになる)。」 かつてはファリサイ派の急先鋒であったパウロの体験が、私の体験となりますように。「わたしは神に生きるために、キリストを共に十字架に付けられました。・・・生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです。」「わたしにとって生きることはキリスト。」