土の器

宮本牧師のブログ

この言葉を聞いて

ヨハネによる福音書の7章の最後の部分は、「この言葉を聞いて」で始まるイエスのある発言に対する人々の反応が記されています。「この言葉を聞いて」とは、仮庵祭期間中におけるイエスの発言のこと、直接的には直前の37節、38節ということになります。こう言われています。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 43節を見ると「イエスのことで群衆の間に対立が生じた」とあるように、イエスの言葉を聞いて、ある人は、イエスを「本当にあの預言者だ」と言いました。「あの預言者」とは、モーセの次に来ると信じられていた預言者のことです。ある人は、イエスをストレートに「メシア」だと言いました。また別の人は、イエスはメシアではないと言いました。理由は、メシアはダビデの町ベツレヘムから出ると預言者されていたので、ガリラヤ出身と思われていたイエスがメシアであるはずがないということでした。しかし、イエスベツレヘムで生まれたことを知っている私たちにとっては、この言葉さえも、イエスがメシアである証拠になります。また、イエスを逮捕するように議会から遣わされた下役たちは、イエスを逮捕しないまま議会に戻って来て、その理由を問われると、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えました。下役たちは日常的に、有名なラビの話しを聞いていたのでしょう。時の大祭司の説教も聞きました。でも「今まで、あの人のように話した人はいません」と言わざるを得ないほど、イエスの言葉には権威があり、自分たちの内側が変えられていくことを否定できなかったと言っているのです。すると、議会でもイエスのことで意見が分かれます。ファリサイ派の人々は、下役たちに「お前たちまでも惑わされたのか」と声を荒げました。彼らにとっては、イエスをメシアと認めることは、無知以外の何ものでもなかったからです。律法を知らない愚か者だけが、イエスの言葉に惑わされているのであって、実際に議員やファリサイ派の人々の中に、イエスを信じている者はいないと言うのです。しかし、ここであのニコデモが登場し、イエスを弁護する発言をします。これは勇気のいることでした。もちろん、この段階ではまだニコデモも公にイエスへの信仰を告白するには至っていませんが、全会がイエスを非難する雰囲気の中で、「律法を知らない群衆は呪われていると言うけれど、我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめた上でなければ、判決をくだしてはならないことになっているのではないか」と、イエスを擁護したのです。 この仮庵祭は、イエスが十字架に付けられる前年の秋の出来事ですから、これから約半年の間、イエスを巡って国中が分かれるほどの議論がくり広げられながら、翌年の春の過越祭に向かっていくことになります。今日のところでは、仮庵祭の終わりの日に語られたイエスの言葉を聞き、自分自身のうちに渇きがあることに気づいた多くの人がイエスをメシアではなかろうかと信じ始めていた様子がわかります。しかし、頑なに信じようとしない人もいました。さあ、私たちはどうなのでしょうか。 今週も大切なことを大切に。