土の器

宮本牧師のブログ

自分では収めきれない私

ある説教者がヨハネ福音書21章を「偉大なる蛇足」と呼びました。その内容はペテロの再召命、全き献身です。
私たちは自分の器では収めきれない試練、悲しみ、苦悩を経験することがあります。イエスの十字架の前夜、三度もイエスを知らないと言ったペテロもまさにそうでした。自分という小さな器に収めきれない試練に遭うと、人は自分を見失い、神を見失ってしまうのです。『ふり返る祈り』という祈りの本に「収めきれない試練」という祈りがあります。
「神様、人生には、必ずしも一度に一つの出来事が起こるのではありません。一度にさまざまなことが起こってくるのです。そして一つ一つのことは小さくありません。心悩ませ、涙にくれながら、祈らせられる事ごとです。主よ、私の心の器はそんなに大きくありません。起こってくる試練をとても収めきれないのです。けれども、私自身はあなたの大きな器の中にあります。今日も肩の力を抜き、あなたの愛のわざの中に身をゆだねて、あなたの御心を行うことができるようにお守りください。」
さあ、シモン・ペテロと共に、神の愛という大きな器の中に飛び込みましょう。「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛していますか。」「主よ、あなたはすべてをご存じです。(私の弱さも、脆さも、不信仰も不従順も、すべてをご存じです)。(それでも)私があなたを愛していることを、(それが嘘ではないことを)あなたはよく知っておられます。」
自分では自分を収めきれない私を、収めてくださる大きな愛の中に、いま帰って行きましょう。「自分には愛がないと思う人は、愛が一番たくさんある所に行きなさい。愛が一番たくさんある所、それは十字架です。」