土の器

宮本牧師のブログ

大きな愛に生きる、小さな一歩

『聖母の騎士』というカトリックの雑誌に、一人の弁護士の方が「現代の菩薩」という寄稿をしている記事を読みました。その方は熱心な仏教徒ですが、「現代の菩薩」の例として三人のクリスチャンを紹介し、「以上に述べた現代の菩薩たちは、すべてクリスチャンであって、仏教徒ではなかったことを私は恥ずかしいと思っている」とその文章を結んでおられました。 
三浦綾子さんも同じ三人のことを『小さな一歩から』というエッセイ集の中で取り上げて、次のようなことを記しています。 アウシュビッツ収容所で、一人の囚人の代わりに、自らの命を捧げて死んだコルベ神父の名を知らぬ者は、まずないであろう。洞爺丸台風と呼ばれる台風が、1954年北海道を襲った時、二人の宣教師が、見も知らぬ日本の若い男女のために救命袋を譲って、嵐の海に命を果てた。これは私の小説「氷点」の中にも書かれている実話である。また、1912年、北海道塩狩峠において、長野政雄は突如暴走した客車の乗客を救うために、線路に身を投じて貴い命を散らした。これも、私の小説「塩狩峠」に詳しく書かれている。
この三つの事件は、すべて
キリスト者の犠牲の死を伝えるものである。これらの話を聞いて、感動しない者はいない。しかし、深く心を打たれながらも、「とてもわたしには真似ができない。自分たちとは別な世界に住む人だからできたことだ」という言葉をしばしば聞く。
ある時、この言葉について私は姉と話し合ったことがあった。姉は言った。「わたしも真似はできない」と。むろん、私も同じことを思った。が、その時、姉はまた言った。「わたしたちは、なかなか命は捧げられないけれど、小さなものなら、捧げられるのではないかしら」。なるほどと私は思った。小さな犠牲なら、私たちも捧げられるかも知れない。例えば、自分の庭に咲く一番美しいバラを、病んでいる人のために切って捧げることはできないか。そう思った時、捧げようと思えば、もっともっと捧げ得ることに私は気づいた。つまり、どんなに忙しくても、一日に十分の時間を誰かのために割くことはできないかと思ったのだ。電話でもいい、葉書でもいい、その人のために祈るだけでもいい。要は小さな一歩から始め得るのではなかろうか、と。
キリストのように生きるため、大きな愛に生きる、小さな一歩から私たちも始めよう。