土の器

宮本牧師のブログ

ああ無情

1815年の秋の夕暮れ、一人の男がディーニュの小さな町にやって来ました。着古したよれよれの上着に、すりきれたズボン、肩には重そうなリュックを背負い、手にはステッキ代わりの太い棒をもっていました。一日中、歩き回り、飢えて疲れ切っている男。しかし、男が持っている黄色い旅券のために、だれも男を受け入れません。どの宿屋も食堂も門前払いです。旅券には次のように書いてありました。 「ジャン・バルジャン、放免徒刑囚、徒刑19年におよぶ。押し込み強盗により5年、4回脱獄を企てたことにより14年、危険人物。」 押し込み強盗。法は残酷な言葉で彼の罪を書き立てていますが、実際には、一個のパンを盗んだ罪なのです。しかも、自分のためにではなく、主人を亡くした姉の、残された七人の子どもたちのために盗んだパンだったのです。一個のパンのために19年の牢獄生活。このようなことがあってよいのか、人間がこのように取り扱われていいのか。ヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル(ああ無情)」です。ユーゴーが「レ・ミゼラブル」を書き始めたのは43歳の時で、完成したのは60歳の時であったと言われていますから、ある意味で、このストーリーは文豪ユーゴーのすべてを表しているといえるでしょう。 すべてのものから閉め出され、一切の希望を失って死ぬばかりになっていたジャン・バルジャンの前に、一つの家の扉が開かれました。それは徳の高いと評判のミリエル司教の家でした。ミリエル司教は、まるで大切な客をもてなすように、司教の家のたった一つの宝である銀の食器と燭台をテーブルに並べて彼を歓待してくれました。しかし、あまりにも固く凍りついていたジャン・バルジャンは、司教の親切を踏みにじるかのように、銀の食器を持ち逃げしてしまいます。翌朝、憲兵に捕らえられ司教の所に連れて来られたジャン・バルジャンにミリエル司教は言います。「あなたでしたか。よく帰って来られました。どうしたのです。私は銀の燭台もあなたにあげたのに、なぜ食器しか持って行かなかったのですか?」憲兵が立ち去った後、司教はジャン・バルジャンに生涯忘れることのできない言葉を語ります。「私の兄弟ジャン・バルジャン、あなたはもはや悪の手中にあるのではなく、神の手中にあるのです。私が銀の食器と燭台で買ったのはあなたの魂です。私はあなたの魂を罪から引き離し、神にささげます。」 ミリエル司教が登場するのは、長い作品の最初の部分だけですが、この作品の全編にわたって、ジャン・バルジャンとともに歩くミリエル司教を見ることができます。ミリエル司教は、この本の一つの思想である「愛と赦し」を表し、ジャン・バルジャンはその思想を後の苦悩に満ちた全生涯にわたって実現していくのです。物語の最後は、ジャン・バルジャンの臨終の場面です。「司教を呼びましょうか」との言葉に、「私には、もう司教がいます」と答え、天を仰いだジャン・バルジャンは言葉を続けます。「あのお方が、今天上で私に満足してくださっているかわからないが、私はできるだけのことをしてきました。」このように、神の愛と赦しを体験した人だけが、人を愛し赦すことができるようになるのです。 私たちもかつては雷の子、怒りの子でありましたが、今は神の手の中にあります。キリストが命をかけて贖ってくださったのは私の魂です。だから私は神のものなのです。 明日は礼拝では、前回と同じテキストで、御言葉を深めて学びます。今年、私たちも、愛に根ざし、愛によって建て上げられる神の住まいとなることができますように。