土の器

宮本牧師のブログ

ふさわしい記事

三浦綾子さんとご主人の光世さんによる「綾子・光世 響き合う言葉」という素敵な本があります。綾子さんの作品の中から、心に響くフレーズが右のページに、それを受けて左のページに光世さん言葉が書かれている、響き合う言葉です。こんな感じです。 (綾子さん) 本当に自分が悪かったと思う時、人間は思いもかけぬ大きな平安が与えられるのだ。 罪がわかった時、神が見えてくるのだ。驚くべき新しい世界がわかってくるのだ。 (光世さん) 妻綾子が、13年の闘病中に示された確信。「罪がわかった時に、神が見えてくる。」 このあと、綾子は喜びの一生を生きた。 ここに三浦綾子さんも体験された聖書が私たちに伝える最も大切なメッセージがあります。それは、罪、神、救いです。ヨハネによる福音書のシリーズも8章に進みますが、そこにこの大切なメッセージが実に絵画的に記されています。聖書を読んでいると、7章の53節以下、8章の11節まで、カギ括弧で閉じられていることに気づかれると思います。この箇所について、詳訳聖書の欄外にごく短く次のように解説されていました。「この箇所は古い写本に欠けている。しかし、いかにもキリストにふさわしい記事であるので、私たちはこれを純正なものとして受け入れ、削除するのを最も不幸な事と考える」と。 すると、この物語は、仮庵祭に続く記事として読むことになりますが、20節を見ると「イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された」とあります。それは神殿の「婦人の庭」の付近のことで、仮庵祭の間、そこには4本の大きな燭台が置かれていました。仮庵祭は、40年の荒野の旅を記念する祭りで、水と光がテーマでした。光というのは、神が昼は雲の柱、夜は火の柱をもって民を導かれたことを記念しています。燭台の光はそのシンボルでした。仮庵祭の直後(あるいは、7章と前後して、祭りの最中であったかも知れませんが)、イエスがこの燭台を背にして、「わたしは世の光である」と語られる場面で、「いかにもキリストにふさわしい・・・削除するのを最も不幸な事と考える」と言われる一つの物語が挿入されるのです。 今週も大切なことを大切に。