土の器

宮本牧師のブログ

聞いて信じるのか、見て信じるのか

ヤコブの井戸のほとりで、あの婦人と出会った二日後、イエスサマリアを離れ、ガリラヤへ戻られます。「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と語られたイエスですが、その言葉とは裏腹に、サマリアの人たちがそうであったように、郷里であるガリラヤの人たちもイエスを歓迎しました。イエスエルサレムでなさったことを見た人たちがいたからです。サマリアの人たちとガリラヤの人たちの違いは、サマリアの人たちは「聞いて信じた」と書かれているのと、ガリラヤの人たちは「見て信じた」と書かれているところです。それが第二のしるしの前提になります。 物語の舞台は最初のしるしが行われたガリラヤのカナです。そこに病気の息子の癒しを求めるカファルナウムの王の役人がやって来ます。マタイやルカの福音書には、カファルナウムに駐屯していたローマの百人隊長が中風の僕の癒しを願うという話が出て来ますので、混同してしまうかもしれません。聖書学者のなかにも、二つはもともと同じ出来事であったと理解する人もいるようですが、イエスの言葉に対する信仰が語られているという共通点はあっても、状況はかなり異なる感じがします。 王の役人とは、当時ガリラヤの領主を務めていたヘロデ・アンティパスの側近ということですが、ルカがイエスに従った婦人たちのリストの中にヨハンナという婦人の名を挙げています。彼女について「ヘロデの家令クザの妻ヨハンナ」と紹介されていますが、王の役人の家族が信者となったことを考えると同一人物かもしれません。 彼はイエスユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとにやって来ました。カファルナウムからカナまでは約30キロ、名古屋から一宮あたりの距離になりますが、馬を使ったでしょうか。徒歩だと8時間はかかるでしょうか。実際はカファルナウムは海面下300?、カナは標高300?のところに位置していますので、高低差が600?あったことになりますので、もっと時間がかかったかもしれません。決して楽な移動ではありませんでしたが、王の役人はなりふり構わず、瀕死の状態に陥っていた息子のために藁にもすがる思いで、イエスのもとにやって来たのです。 そんな彼の必死の願いに対して、イエスの態度は一見連れないものでした。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない。」確かに、これが直接王の役人に語られたとするなら、連れない答えと言うことになるかもしれませんが、「あなたがた」と言われていますので、エルサレムでイエスがなされたことを見て喜んでいるガリラヤの人たちに語られたと取るなら、この言葉を通して、この物語の核心に導かれて行くことになります。 今週も大切なことを大切に。