土の器

宮本牧師のブログ

問題の核心へ

季節は初夏、時の正午ごろ、場所はシカルの町、ヤコブの井戸のほとり、水を汲み来た一人の婦人に、旅に疲れた様子のイエスが「水を飲ませてください」と語りかけたところから始まった二人の対話でした。一杯の水を巡って始まったやり取りは、いつしか目に見えるものから見えないものへと移され、ついに生きた水という話題に発展していきます。この辺りは「水の福音書」とも呼ばれるヨハネ福音書の真骨頂ですが、4章ではあえてこれ以上は話さないでおきます。とにかくこの婦人は、イエスとの語らいの中で、その水が欲しいとの渇きが与えられました。そして16節から、もう一つの大切なテーマ、礼拝の奥義へと話題を移していくのです。 初めの部分は、週刊誌やワイドショーが喜びそうな、スキャンダラスな彼女の過去が暴露されています。夫を呼んできなさいと言われて、連れて来ることのできない彼女は、5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではないというのです。普通は、ここで彼女にふしだらな女性というレッテルを貼ってしまうのですが、先週紹介したウォルター・ワンゲリンの小説「聖書」によれば、不幸にも夫に先立たれる呪われたような人生を生きる女性という描き方がされていて新鮮な感じがしました。聖書注解者のバークレーは、5人の夫を、北イスラエル王国の歴史から、北王国を滅ぼしたアッシリア帝国が移民政策によって導入した5つの民族、またそこに持ち込まれた偶像の神々と関連を指摘します。つまりこの女性の現実は、幸福を願いながらも、真の神ではないものに振り回され、いつまでも満たされず、寂しい思いをしている人の姿なのです。何度も言いますが、私はこの人に会ったことがあります。その人は鏡の中にいました。私のことです。イエスサマリアの婦人との物語は、私の物語なのです。 「夫を呼んで来なさい」と言われ、顔を真っ赤にしながら「私には夫はいません」と、ありのままを言った女は、話題をすり替えようとしたのか、あるいは自分の最も恥ずかしい部分を見せられ、魂の奥底にあった神への渇きに目覚めたのか、ここから礼拝についての問答が始まるのです。どこかかみ合わない会話もヨハネ福音書の特徴だとお話ししましたが、「水を飲ませてください」からはじまった二人の対話が、気がつけば10節の「『水を飲ませてください』と言ったものがだれであるか」という問題の核心へと導かれて行くのです。 今週も大切なことを大切に。