土の器

宮本牧師のブログ

渇くことに渇く

ヨハネ福音書の4章を学んでいますが、同じヨハネ福音書の19章に、ヨハネのこだわりを見ることができます。19章は十字架の場面ですが、イエスは十字架上でこう語られました。28節、「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。」そして、その少し前の14 節で、「それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった」と十字架の時間を設定しています。この部分は他の福音書との違いが指摘される箇所ですが、ヨハネにとっては4章と時間をそろえるところに意味がありました。つまり、ヨハネにとって、サマリアの婦人の物語は、すでに十字架を指していたと言うことなのです。私たちの渇きをいやす、救いの源が十字架であることを、彼は語っているのです。十字架の上で、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と言われたお方が、「渇く」と言われたのです。命の水の源であるお方が、尽きるはずのないお方が、十字架の上で、私たちのためにすべてを与え、注ぎ尽くされたと言うことではないでしょうか。大槻牧師の「十字架の黙想」によれば、それは私たちが主御自身に渇くことに対する渇きです。「ああ!主のこの渇きを真実悟って、渇きをいやさんために身を献げる人はなきか!主に渇いて主御自身に来たるものはなきか!ああ誰か主のこの渇きをとどめ奉るものはなきか!」 十字架の主イエスは渇いておられます。渇きつつ、あなたを呼んでいます。「かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。」「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」「かわいた地は水の源となる」と。 メッセージの最後に、ウォルター・ワンゲリンの小説「聖書」新約篇から、サマリアの女が登場する場面を紹介しました。意外な彼女の姿が新鮮です。結婚する男が次々と不幸に見舞われ死んで行くという呪われたような生涯。差別と偏見、恐怖の的となっていた彼女の人生が変えられていったとき、町中がどよめき始めました。 明日で終戦から70年。世界が平和の道に導かれますように。