土の器

宮本牧師のブログ

信仰によって

ヘブライ人への手紙にはこう書かれています。「信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました」と。鍵は「信仰によって」です。実際、過越には細かい指示があって、イスラエルの民にとっては、それを事細かに守ることが重要でした。(事実、ユダヤ人は血を塗ることと、立ったままで急いで食事をするという、出エジプトのときに実行した一度限りの命令以外は今も忠実に過越の祭を守っています。)しかし、この過越の行為は本来「信仰によって」なされたことだったのです。 信仰とは、「将来に起こることを確かなものとしてつかむ手であり、まだ見ていないものの確実な証拠を見る目」です。信仰によって、モーセは・・・目に見えない方を見ているように、耐え忍びました。モーセイスラエルの民は、何を見、何を掴んでいたのでしょう。イエス・キリストはこう言われます。「モーセは、わたしについて書いているからである」(ヨハネ5:46)と。 あの夜、屠られた傷のない小羊とは、私たちの罪の身代わりとして、贖いの犠牲(供え物)として死なれるイエス・キリストを指していたのです。ペトロも手紙の中にこう書いています。「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活(罪のエジプト)から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」(ペトロ一1:18-19)と。信仰によって、モーセは・・・過越の食事をし、小羊の血を振りかけた。これが主の過越である。 次の日曜日も人数制限をしての分散礼拝を行う予定です。YouTubeによるライブ配信も続けていますので、心配や不安のある方は、無理をせずそちらでご参加ください。第1礼拝は10時から、第2礼拝は11時15分から、それぞれ45分ほどの集会になります。