土の器

宮本牧師のブログ

福音には、神の義が

1517年10月31日、ビッテンベルグの城門に95カ条の提題という、神学的な問いかけがルターによってなされました。彼は、まさかその日が宗教改革記念日になるとは考えてもいなかったでしょう。宗教改革のきっかけになった御言葉がありました。詩編31編1節の言葉です。「あなたの義をもってわたしをお助けください」(口語訳)。これが、宗教改革の歴史の中で、ルターの「一点突破」と呼ばれる御言葉です。(新共同訳では「恵みの御業によってわたしを助けてください」と訳されていますが、それにも意味があります。)神の義とは、神の正義、清さであって、私たち罪人と神を隔てるものであり、その義のゆえに、私たちは裁かれ、罰せられるのですから、罪ある者にとって神の義は恐ろしいものだったのです。 ルターは、神の義が私たちを裁くのではなく、「助ける」と書かれていることに違和感を感じますが、ついにルターの研究の中心となる、ローマの信徒への手紙1章17節に目が開かれ、福音の理解は一点突破から全面展開していきます。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」彼はこの途轍もない発見を、「修道院の塔の小部屋において得た」と言ったことから、これを「塔の体験」と呼びます。 そうです。イエス・キリストが、一粒の麦となり、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったという、この福音の中に神の義は現されました。聖書は言います。「キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖と贖いとなられたのである。」 私たちは罪人でしたが、神の目から見て正しい者、義人にしていただきました。ルターの言葉です。「キリストは十字架の上で、自分ではないもの(罪人)になられた。それは、私たちが自分ではないもの(義人)となるためであった。」 イエスは言われました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」と。ヨハネはイエスの言葉に説明を加えます。「イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。」ギリシア人の来訪から始まった一連の記事でしたが、ここに彼らへの答えがありました。「すべての人を」、詳訳聖書では「ユダヤ人はもちろん、異邦人も、私のところに引き寄せよう」と訳されています。イエスが十字架に上げられるとき、すべての人が十字架のもとに引き寄せられ、神の愛を体験するようになるのです。この福音にこそ、神の義は示されたのです。