土の器

宮本牧師のブログ

真意

マタイは、十字架上で語られた7つの言葉の中で、深い闇の中で死の間際に叫ばれた言葉、最も衝撃的であった第4の言葉だけを書き留めました。それもイエスが当時話していたアラム語のまま、できるだけリアルに記録しました。この言葉ほど深刻で、また重大な言葉はありません。この言葉の真意を私たちはどれほど理解することができているのでしょうか。当時のユダヤ人も、今日の多くのクリスチャンもイエスの言葉を理解できないでいます。そればかりか、かえってこの言葉を誤解し、この言葉こそイエスの敗北を証明しているのであって、イエスはメシアでも、神の子でもなかったのだと主張するのです。 しかし、この重大な十字架の言葉の真意がわかれば、イエスこそメシアであり、彼が全人類の罪を背負い、一身に罪の呪いを受け、完全な贖いを成就されたお方であることがわかるです。この言葉は、神に見捨てられるメシアについて予告する詩編22編1節の引用ですが、イエスは文字通り、その苦悩を体験されたのです。神の御子であるイエスは、永遠の初めから御父と共におられ、その内面的な一致は一瞬も途絶えたことがありませんでした。ところが、この御父との一致が、十字架上で一瞬、完全に断たれてしまったのです。 バッハは、マタイ受難曲の中で、それを見事に表現しています。彼はイエスの言葉が独唱で歌われるところでは、神的なイメージを与えるために弦合奏を伴奏に使いました。これは光背と呼ばれる、宗教画などによく用いられる手法で、聖人の背後や頭に置かれる後光のことです。バッハそれを音楽に取り入れました。しかし、イエスの言葉でただ一箇所、その弦合奏が消えてしまう場面があるのです。それがこの十字架の言葉です。 では、なぜ、父なる神と子なる神の関係が途絶えたのでしょうか。それは、イエス・キリストが全人類の過去、現在、未来に渡る、すべての罪をその身に負われ、罪そのものと見なされたからです。この瞬間、全人類の罪が、イエスの身に負わされ、イエスは呪われた者となり、神から見捨てられたのです。 パウロは言います。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」と。