土の器

宮本牧師のブログ

最後の人

今年はルターによるドイツにおける宗教改革から500年目の年に当たっています。二つの「R」ということが強調されていると聞きました。福音の素晴らしさを再発見(Rediscovery)し、決意も新たに再スタート(Restart)することです。今年の下半期(10月31日が宗教改革記念日)は、そのことを願いながら、宗教改革の話題をちりばめてメッセージをしたいと思っています。 宗教改革の功績の一つは、すべての人が自分の言葉で聖書が読めるようになったことです。当時はラテン語が読めなければ聖書が読めませんでした。ルターを遡ること150年前、イギリスのウィクリフという人物は、宗教改革に先駆け、聖書翻訳に着手しています。その働きから、今日も彼の名が付けられたウィクリフ聖書翻訳協会という団体があります。聖書翻訳の仕事は、骨の折れる途轍もない仕事です。例えば、「あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」という御言葉がありますが、日本人はこの状況を頭でイメージし、罪の赦しがどんなものかを理解できます。しかし、雪を知らないアフリカの人にはそれがわからないのです。どう訳したかというと、「綿花のように」と訳したそうです。これだとアフリカの人でもわかります。 ウィクリフの人が、これもアフリカのカレ族のために聖書を訳していた時のことです。「慰め」という言葉をどう訳するかで思案していました。そんなある日、カレ族の人が列を作り、頭に籠を載せて歩いている様子を見ましたが、最後の人だけ頭に何も載せていないことに気がつきます。どの列を見ても同じです。理由を尋ねると、「列の誰かが疲れて倒れたら、すぐにその人のところに駆け寄って、その荷物を代わりに運ぶ人が列の後ろにいる」と聞き、ウィクリフの人は、これこそ「慰め」だと言って、「最後の人(傍らに共に倒れてくれる人)」と訳したそうです。 今年の初めに、イザヤ書の52章から、「しんがりとなる神」のいうメッセージを語りました。しんがりとは、最後尾で戦いを続ける部隊のことです。その言葉には「集める」という意味がありますが、しんがりを守るとは、最後尾で戦いを続けると共に、自軍が散らかしたものをほったらかしにせず集めることです。戦場では、負傷兵や遺体を引きずってでも連れ帰らなければならないように、私たちの人生の恥も失敗も傷も、神が全部背負ってくださるというのが、しんがり、「最後の人」です。そして、その最大の業は、イザヤ53章、イエス・キリストの十字架だったのです。 今週も大切なことを大切に。