土の器

宮本牧師のブログ

その思いこそ神さまそのもの

以前から気になっていた「ガリラヤのイェシュー(日本語訳新約聖書)」という本を買いました。これは、岩手県の沿岸部「ケセン地方」に昔から伝わる言葉を中心に、北は津軽から南は薩摩までの方言で訳された聖書(四福音書)なのですが、大船渡市に住む山浦玄嗣さんというお医者さんが、自分たちにわかる言葉で聖書を読み、それを伝えたいと独学でギリシャ語を勉強して翻訳されたものです。考えてみれば、イエスエルサレムから北へ遠く離れた田舎の大工でした。そんなイエスが、土地の漁師や農民に語るのに、学者でなければわからないような言葉や表現を使ったとは思えません。とすれば、東北地方の方言であるケセン語というのは、意外に、イエスの生涯を日本語で伝えるのにはぴったりなのかもしれません。こんな感じです。 1:1 初めにあったのは 神さまの思いだった。 思いが神さまの胸にあった。 その思いこそ神さまそのもの。 1:2 初めの初めに神さまの 胸の内にあったもの。 1:3 神さまの 思いが凝って あらゆる物が生れ、 それなしに 生まれだ物は一つもない。 1:4 神さまの思いには  あらゆるものを生がす力があって、 それはまた、 生ぎる喜びを人の世に輝がす光だった。 1:5 光は人の世の 闇を照らしているというのに、 闇に住む人はそのことに 気がつかないでいたのだった。 ロゴス(キリスト)は神の言です。それも神の深い、そして熱い「思い」からあふれる言です。その思いが神の胸に在った。その思いこそは神さまそのものだった、とは斬新ですが、迫力のある訳です。神の思いが「凝って(こごって)」という表現にも感動しました。凝ってとは、こだわって、凝りに凝って、凝縮してという意味ですが、キリストが凝ってすべてのものが生まれて来たということ。そして、キリストには、私たちを生かす力があり、キリストこそ、私たちを神の子として生きる喜びに輝かす光だということ。 この神の熱い思いを受け入れた者、その名を信じる人々には神の子となる資格が与えられました。ここで「信じる」と言われている言葉は、キリストの名の中に「自分を投入する」という意味です。御名はキリストご自身のことですから、キリストの懐に飛び込んで行くということです。外側からではなく、キリストのうちに、御名のうちに、神の思いのただ中に飛び込んで行く者に、山浦さんによるなら「神さまは、わたしの子だと言いなさる」のです。 今日は午前中、松阪での聖書講座でした。いつも楽しみに集まってくださるみなさんに感謝です。