土の器

宮本牧師のブログ

ずきずき痛みました

カトリックのシスター、渡辺和子先生の文章です。
「履歴書を書かされる時、必ずといってよいほど学歴と職歴が要求されます。しかしながら、もっとたいせつなのは、書くに書けない『苦歴』とでもいったものではないでしょうか。学歴とか職歴は他の人と同じものを書くことができても、苦歴は、その人だけのものであり、したがって、その人を語るもっとも雄弁なものではないかと思うのです。文字に表すことのできない苦しみの一つ一つは、乗り越えられることによって、その人のかけがえのない経験という宝になっているのです。」(『どんな時でも、人は笑顔になれる』)
人には言えない、文字に表すこともできない苦歴。今日まで乗り越えることのできた、経験という宝になった苦歴もあるでしょう。しかし今もなお、乗り越えることのできない苦歴もあるのではないでしょうか。苦歴を背負っている私たちは神のあわれみを必要としているのです。イエス・キリストのもとに行きましょう。
マタイの福音書の9章にこう記されています。
「イエスはその地方の町や村をくまなく巡回し、ユダヤ人の会堂で教え、神の国についての福音を伝えられました。また、行く先々で、あらゆる病人を治されました。9:36このように、ご自分のところにやって来る群衆をごらんになって、イエスの心は深く痛みました。彼らは、抱えている問題が非常に大きいのに、どうしたらよいか、どこへ助けを求めたらよいかわからないのです。」(マタイの福音書9:35-36リビングバイブル)
エスの心は、ずきずきと痛みました。これは「スプランクニゾマイ」というギリシア語ですが、神のあわれみを表す特別な言葉です。苦歴によって、あなたの心が痛んでいるので、私の心もずきずき痛むというキリストのコモンセンスが私たちの救いです。今日も十字架を見上げましょう。
「まことに、彼(キリスト)は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打たれた傷によって、私たちは癒やされた。」

カナンの女の信仰

今週も祈祷会を大切に。
御言葉をシェアします。マタイの福音書15章22-28節

今週の祈祷会も、秋期聖会のメッセージを深めるシリーズ。第2聖会のメッセージ「異邦人教会のシンボルであるカナンの女の信仰」をなぞりながら学びました。
エスの三度にわたる拒絶にもかかわらず、娘の救いを求め続けた母親の祈り。最初は無視とも思える沈黙から始まり、最後は小犬呼ばわりされてしまいます。しかし、彼女のおおらかで、マイナスをプラスに変える信仰は退くことを知らず、イエスの御心に迫って行きました。ある意味、沈黙されることはダメと言われるよりもキツいことかもしれません。しかし、彼女は知っていたのです。イエスがこの叫びを聞いてくださっていることを。イエスは沈黙していましたが、彼女の声を聞いていたのです。だから、もし、これは神の御心ではなかったと私たちが勝手に決めつけ、どこかにしまい込んでしまった祈りがあるなら、もう一度それを引き出してきて、祈ってみましょう。
昨日のデボーションで、同じ記事をマルコの福音書で読みましたが、イエスの最後の言葉が「そこまで言うのなら、家に帰りなさい」となっていました。これは「その言葉が聞きたかった」という意味です。この物語は、最後にイエスが彼女のうちから、聞きたかった言葉を聞くという結論に至ります。イエスが聞きたいと願っている祈りが、私たちのうちから湧き上がりますように。
「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」

幸福なるかな、あわれみ深き者

10月のオープン礼拝
メッセージ「幸福なるかな、あわれみ深き者」
聖書 マタイの福音書5章2−10節

「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションに過ぎない」とはアインシュタインの言葉です。常識と偏見は真逆のもののように思えますが、ほんとうは紙一重ということでしょうか。
常識、社会通念を英語では「コモンセンス」と言います。コモンとは、共通・共有を意味しますが、もともとはイギリスにあった共同の牧草地のことで、そこを共有している人がもつ共通の感覚をコモンセンスと言いました。みんなが知っている、理解している「共通感覚」です。
評論家の犬養道子さんは、「五・一五事件」で暗殺された犬養毅首相の孫で、クリスチャンの作家としても知られています。そんな犬養さんの本にコモンセンスについて書かれていました。
「4歳ぐらいのある日、玄関から茶の間に駆け込んで、思いきり柱にぶつかった。おでこはたちまち赤く腫れ上がり、その痛かったこと。私は柱を蹴ったり、たたいたりしました。すると母が、『みっちゃん、柱も痛かったね』と言ったのです。『走って来たのはみっちゃんで、柱じゃないでしょ。柱をいい子いい子して、仲直りしましょう』と。その時のしぐさまで、今でもはっきり覚えています。こちらが痛いということは、あちらも痛い——『お互いに』ということを教えてくれた。非常にありがたいことでした。」(『こころの座標軸』)
「こちらが痛ければ、あちらも痛い」、そんな文章を読みながら、「共通感覚」とは「共痛感覚」と言ってもよいのかなあ。なにか冷たい感じのする「常識」ではなく、コモンセンス(共痛感覚)を大切にしたいと思いました。今、マタイの福音書から、山上の垂訓、八福の教えを学んでいますが、これこそ天国のコモンセンスです。

 

きよい心

八福の第6番目は「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです」という幸いです。ここで使われている「きよい」とは、「透き通った水のような透明さ」「混じり気のない純粋さ」という意味です。神が求めている「きよい心」とは、罪のない心ではなく、たとえ罪を犯して苦しみ、倒れることがあっても、日々自分自身を神にささげたいと願う心のことです。
聖フランシスコと弟子レオネとの対話に耳を傾けましょう。レオネが尋ねます。「いったいいつになったら、心の清い者になれるのでしょうか。」レオネの言葉は、私たちの疑問、悩みを代弁しているようです。
フランシスコの答えはこうです。「自分の心が清いかどうか、そんなに心配してはいけない。目を神に向けなさい。神をたたえなさい。神が完全に聖なるお方であることを喜びなさい。そのことだけを見て、神に感謝しなさい。そうすれば、清い心を持つことができる。神に向かう時、自分自身のことを振り返ってはならない。どれほど神と一致しているか、などと考えてはいけない。自分自身の不完全さや、罪の深さをあからさまに見て悲しむのは、あまりに感情的だ。心の清い者とは、生ける神を絶えず礼拝している者のことなのだ。そのような人は神の命そのものと深く結ばれ、どんな惨めさの中でも、神の永遠の喜びを深く感じることができる。あなたにとっては、神が神であること、それだけで十分なのだ。あなたのなすべきことは、ただ自分のむなしさを知って、そのむなしさをありのままに受け入れることだ。そうするならば、神は一層自由に、あなたの無の中に創造のみわざ(神化のみわざ)を続ける場をお持ちになるのだ。……そして、ついに、キリストご自身があなたの輝きになられるのだ。」
急がず、焦らず、あきらめず、きよい心を求め、自分自身を神にささげることができれば幸いです。

 

奮起させるため

今週も祈祷会を大切に。
御言葉をシェアします。マタイの福音書15章22-28節

今週の祈祷会も、秋期聖会のメッセージを深めるシリーズ。今週と来週は、第2聖会のメッセージ「異邦人教会のシンボルであるカナンの女の信仰」をなぞりながら、深め学びます。
私たちは「イスラエル伝道と異邦人伝道は車の両輪であり、異邦人伝道は、イスラエルの救いのための具体的な祈りです。イスラエルを愛する者は、だれよりも 異邦人伝道に熱心なのです」とくり返し教えられてきました。
パウロは教えます。「それでは尋ねますが、彼ら(イスラエル)がつまずいたのは倒れるためでしょうか。決してそんなことはありません。かえって、彼らの背きによって、救いが異邦人に及び、イスラエルにねたみを起こさせました(イスラエルを奮起させるためでした)。彼らの背きが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼ら(イスラエル)がみな救われることは、どんなにすばらしいものをもたらすことでしょう。」
この経綸の奥義を聖霊によって教えられ、まず私たちが奮い立たって、イスラエルの救いのための具体的な祈りである、異邦人宣教に立ち上がることができますように。

 

幸福なるかな、心の清き者

礼拝メッセージ「幸福なるかな、心の清き者」
聖書 マタイの福音書5章2−10節
マタイの福音書シリーズ(17)

10月最初の礼拝でした。地域のだんじり祭の日と重なったので、今月のオープン礼拝は来週になります。堺に来て最初の秋ですが、だんじり熱に驚いています。
毎週の礼拝で、マタイの福音書から「山上の垂訓」の「八福の教え」を学んでいます。順番では、今日は5番目の「あわれみ深い者」ですが、オープン礼拝のテーマにしているので、今日は6番目の「心の清い者」を先に学びました。
最初に、2020年にロゴス社から出版された絵本『きよこちゃん』と、出版後に『あかしびと』に掲載された作者のSさんの証を紹介しました。
岡山にある清心堂で、清子ちゃんのことを、お母さんの登志子先生からお聞きになり、キリストの救いに導かれた方は少なくありません。私の妻もその一人です。神を見た少女、心のきよい清子ちゃんの物語は、私たちにどんなに大きな祝福をもたらしていることでしょう。「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」
今週も礼拝の恵みに感謝。

 

義と聖と贖い

八福の第4番目は「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです」という幸いです。ここで使われている「義」という言葉は、新約聖書の中でも意味深長な言葉です。単なる道徳的正しさや社会的正義を超えるもので、詳訳聖書は「神のみ前での正しい身分」と訳しています。旧約聖書では広く「救い」を意味する言葉として使われることもありますが、第一の意味(消極面)は、十字架による罪からの解放です。第二の意味(積極面)は聖霊バプテスマにより、御名によって神の義そのものであるキリストを心に宿し、キリストの似姿に変えられていくことです。それはキリストをすべてとしたい、キリストのようになりたいという激しい渇望です。
飢え渇きという欲望は、人間の欲望の中でもっとも強い欲求です。飢え渇く者に、どんな立派な住まいや高価な洋服、貴金属、高級車を与えても、それだけでは飢えも渇きも満たされません。飢え渇きは現実であり、空腹と渇きが満たされなければ、死ぬほかありません。神の義を求め、飢え渇いている魂も同じです。
イエス・キリストこそ、私たちの求めている神の義です。「義」という漢字は、羊と我から成っています。古来、羊は神に捧げる犠牲の動物で、過ちを犯した時、人は羊を神の前にいけにえとして捧げました。「義」という漢字の成り立ちです。聖書はイエス・キリストを「神の子羊」と呼びます。イエスは人類の罪のため、宥めの供え物として十字架という祭壇の上にご自身を捧げられました。ですから、神の子羊であるイエス・キリストの下に我を置く人を罪から贖い、聖なる者とすることがおできになるのです。そうです。「キリストは神に立てられて、私たちの知恵となり、義と聖と贖いになられました。」

 

破れ口に立つ者

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
エゼキエル書22章30節ほか

今週の祈祷会も、秋期聖会のメッセージを深めるシリーズ。先週に続いて、今回の基調メッセージ「破れ口で主のみ前に立ち」をなぞりながら、特に「破れ口に立つ者」という部分を聖書から深めました。聖会では詩篇106篇23節の御言葉から神の人モーセの姿を教えていただきましたが、アブラハムも、アモスも、ダニエルも破れ口に立つ者として、その祈りが描かれています。主が探し求めておられる「破れ口に立つ者」となれますように。
最後に、聖イエス会に与えられた4つのビジョン、残された3つを実現するために、聖会で祈られた祈りを、私たちの祈りとして今日もささげました。