土の器

宮本牧師のブログ

命二ツ

 松尾芭蕉の旅日記『野ざらし紀行』に、滋賀県甲賀市水口という東海道の50番目の宿場町で詠まれた句があります。「命二ツの中に生きたる桜哉」。 この句には、前書きがあって、「水口にて二十年を経て故人に逢ふ」と書かれています。ここで言う故人とは、昔馴染みという意味で、芭蕉と同郷の服部土芳という人物のことです。芭蕉42歳、土芳29歳での再会でした。郷里の伊賀で土芳と別れたのは、彼がまだ9歳のころだったことになりますが、20年を経て、成長した土芳との再会が嬉しくてたまらなかったのでしょう。芭蕉が「命」という言葉を使うのは希なことだそうですが、「命二ツ」という言葉が印象的です。
立教新座高校の校長であった渡辺憲司先生が東日本大震災の年の入学式で話されたスピーチの中に芭蕉の句が引用されていました。
「命二つという発想が、心に強く響いてきた……。私たちは、命を自分一人のものと考えがちです。かけがえのない命は、もちろん自分だけのもの。他の人と取り換えようのないものです。私は<命一つ>と考えていました。それを
芭蕉は、まず<命二ツ>と切り出したのです。 命は、自分一人のものですが……他者の存在なしに、命はありません。親と自分、友人と自分、他者と自己、それぞれがその命を自分の中に大切に抱えながら、親、友人、もうひとつの命に支えられ、<命二ツ>の中で生きているのです。 …… <命二ツ>と、考えることは、相手の心に近づき、自分の身を相手に重ねることです。 互いに命の尊厳を認め合うということです。」(『時に海を見よ』双葉社
心に沁みる言葉ですが、キリストの言葉も「命二つ」という発想ではないでしょうか。ぶどうの木と枝。枝は木につながっていなければ実を結ぶことができず、木も枝なしには実を得ることはできない掛け替えのない存在、この命二つが出会う桜ならぬぶどうの木、それは十字架です。かつては呪いの象徴であった十字架が、キリストの死と復活を通して命との出会いの場所となったのです。 キリストは今もあなたを呼んでおられます。なんと二千年もあなたと会えるのを待ち続けておられたのです。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」「私のうちに生きなさい。……私もあなたたちのうちに生きよう」と。