土の器

宮本牧師のブログ

共に座れなくなった者たちへ

エスは言われた。「人々を座らせなさい。」 奇跡のパンによって養われた群衆の姿の中にもキリストの体なる教会のあるべき姿を見ることができます。共に座る幸いについて、ダビデはこう歌っています。詩編133編です。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」 これは都上りの歌ですから、久々に再会した家族や友人と神殿を詣でる喜びが歌われていると思っていましたが、こんな文章を読んで印象が変わりました。 一日の仕事を終え、夕食時を迎えた家族が食卓を囲んで共に座り、父親が食前の感謝の祈りと家族が一日を無事に送れたことのお礼を神さまに申し上げている・・・そこには主にある深い平安と静かな喜びがあふれているのです。 また、こんな情景も浮かんできます。教会の兄弟姉妹が礼拝堂に集い、共に座って心からの礼拝をささげている。皆が唯一の神さまを仰ぎ、一つの心で賛美し、感謝の祈り、あるいは赦しを求める悔い改めの祈りをささげている。そこには「御国を来たらせたまえ」と祈りながら地上を旅する神の民に与えられる深い神の恵みと、心の底から湧き出るような清らかな喜びが満ちている・・・。 わたしたちは聖日ごとに主にある兄弟姉妹と共に礼拝を守り続けられることの素晴らしさを素直に感謝したい。共に座って祈りをささげ、礼拝をささげられることを大切にしていきたいと思います。なぜなら、心ならずも共に座れない、座れなくなってしまった人たちが現実に多くいることを知っているからです。・・・・・・ この詩の作者ダビデは、自分の傲慢の罪のゆえにバテシバ事件を起こし、王位継承をめぐって愛する息子アブサロムを失います。イスラエルの王になったものの、幸せな家庭をつくれなかった人です。ですからこの詩の奥には、共に座れなくなった者たちが赦しあうことによって、再び共に座って祈り、礼拝をささげる者になってほしいとの切なる願いが秘められていることを、私は強く感じるのです。 イエスの声が響きます。「人々を座らせなさい。」共に座れなくなった者たちが赦しあうことによって、再び共に座って祈り、礼拝をささげる者になれますように。そうすれば、そこからパンの奇跡のような奇跡が始まるでしょう。