土の器

宮本牧師のブログ

時が来ました

十字架の前夜、最後の晩餐が終わった後、イエスは弟子たちへの最後の教えとして、これから起こるべきことを、まるで遺言を語るように語られました。遺言と言えば、旧約聖書を見ると、アブラハムの子イサク、その子ヤコブが、創世記の最後で12人の息子に遺言を語る場面があります。それはヤコブの祈りでもありました。また申命記33章には、モーセイスラエルの民に遺言を語る場面があります。それはモーセの祈りでもありました。同じように、今ここでイエスも弟子たちに遺言を語り、最後に祈りをささげておられるのです。 ヨハネ福音書の17章全体がイエスの祈りですが、この祈りは3つの部分に分けられます。第1が、1節から8節までで、イエスはまず自分自身のために祈っています。第2が、9節から19節までで、弟子たちのための祈りです。そして第3が、20節から26節までで、「彼ら(弟子たち)の言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」と言って、この後、世の終わりに至るまで、イエスを信じるすべての人のために、すなわち、私たちのためにも祈られたのです。何と壮大な祈りでしょう。 四福音書には、イエスの祈る姿がしばしば描かれていますが、イエスが何を祈られたのかについて、言及している箇所は多くありません。さあ、イエスの祈りを聞きましょう。「父よ、時が来ました。あなたの子の栄光を現してください。それは子があなたの栄光を現すためです。」ヨハネは12章以降、イエスの受難の物語が始まる前は、イエスの時が来ていなかったと伝えてきました。2章の、カナの婚礼の奇跡の場面で、「ぶどう酒がなくなりました」と母に告げられた時、イエスは「わたしの時はまだ来ていません」と答えました。7章、8章は仮庵祭の出来事ですが、そこでもイエスは「わたしの時が来ていないから」と語っておられます。しかし、キリストの最後の1週間、受難の物語が始まると、12章、あの一粒の麦の譬えが語られる場面で、イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」と語られます。続く13章では、あの洗足の場面で、「イエスは、この世から父のもとへ移る自分の時が来たことを悟り」と書かれています。そして、ここに至って「時が来ました」と言われたのです。 イエスの生涯において、最も重大な時、神の御子が受肉した究極の目的、人類救済のあがないを実現成就するその時、御子が御父の栄光を最大限に輝かすべき時、それによって御子もまた御自身の栄光を燦然と輝かすべき時が、今まさに来ていたのです。ベツレヘムの馬ぶねから、カルバリーの十字架に至るまで、イエスの全生涯は、この時に向かって集中されていたのです。 次の日曜日は、8月最後の礼拝です。夏の恵みに感謝しつつ。