土の器

宮本牧師のブログ

そばを通り過ぎようとされた

キリストの海上歩行、マルコ福音書の記事です。「ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。」 「そばを通り過ぎようとされた」と書かれてありますが、どういう意味でしょう。もちろん、弟子たちを無視して、悪戯に通り過ぎるということではありません。実は、これと同じ言葉が旧約聖書では、神の顕現を現す場合の合い言葉のように用いられています。神が通り過ぎるときとは、神の顕現、神との出会いの決定的瞬間という意味だったのです。 聖書で確認しておきましょう。出エジプト記の33章で主はモーセに顕現されました。22節から、「わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」そして34章、5節から、「主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。主は彼の前を通り過ぎて宣言された。『主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐深く、慈しみとまことに満ち・・・』」。この神の顕現は、かたくななイスラエルの民が金の子牛を礼拝するという怖ろしい罪を犯した直後に与えられました。イスラエル共同体という舟に逆風が押し寄せている只中で、主はモーセのそばを通り過ぎ、御名を宣言されたのです。 もう一ヶ所、列王記上の19章で主は預言者エリヤに顕現されました。バアルの預言者との戦いに勝利し宗教改革をもたらしたエリヤでしたが、女王イゼベルが彼の命を狙いました。逃亡者となり、意気消沈しているエリヤに主が現れてくださる場面です。11節「主は、『そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい』と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。」ここにも主が通り過ぎたと書かれています。そして、「主の御前には非常に激しい風が起こり・・・」と続きますが、風の中に主はおられなかった。地震が起こったが、その中にも主はおられなかった。火が起こったが、その中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声があった。主はその声によって、すなわち言葉によって、エリヤに現れてくださいました。神ご自身を現す言葉、それは御名です。主は迫害という逆風に悩まされ、意気消沈していたエリヤのそばを通り過ぎて言われた。「わたしだ。恐れることはない」と。 ですから、マルコは、イエスが「そばを通り過ぎようとされた」と書くことで、イエスこそ、モーセのそばを通り過ぎた、エリヤのそばを通り過ぎた方であったことを私たちに伝えたかったのです。なぜなら、それこそ、「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていた」弟子たちに、イエスが伝えたかったことだからです。この焦点がボケてしまわないように、マルコもヨハネも、ペトロの出来事を省いて、できるだけシンプルに、読む人の目をキリストに向けさせたのではないでしょうか。 そこでヨハネは言います。「これからのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」と。 今日は午前中、市内の家庭集会が持たれました。