土の器

宮本牧師のブログ

一つの場所

主はモーセに言われました。「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。(箴言の8章には、神が天地を創造された時、神の傍らにキリストがいたことが記され、第1コリント10章には「この岩こそキリストだったのです」と書かれています。)わが栄光が通りすぎるとき(瞬間)、わたしはあなたをその岩の裂け目(十字架の御傷を連想させます)に入れ、わが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」 これらの描写は擬人法であって、実際に霊である神に顔や手があるわけではないでしょうが、「わたしの後ろ」とは、あるがままの神の栄光を直接ではないかもしれないけれど、その反映を見ることが許されたということです。もっとはっきり言えば、「御子(キリスト)は、神の栄光の反映、神の本質の唯一の表現」ですから、モーセは彼の時代から1500年後に現れることになる、神の子キリストを見せられたということです。 神との出会いのためには指定された一つの場所があります。イエスは言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」と。その時、弟子のフィリポが願い出ました。「主よ、わたしたちに御父を(神とその栄光)をお示しください。そうすれば満足できます。」イエスは言われました。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。」これが栄光の瞬間です。