土の器

宮本牧師のブログ

夕方になると

エスの葬りについて、いろいろな意義を見い出すことができますが、バッハはマタイ受難曲の中で、57節の「夕方になると」という言葉を創世記の第3章8節と結びつけています。創世記の第3章は、罪の始まり、失楽園の物語です。蛇の誘惑によって、禁断の木の実を食したアダムとエバは、自分たちが裸であることを知って、いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆いました。その時のことです。 「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』」 バッハは、葬りの場面の解説として、次のような歌を挿入したのです。「夕暮れ、涼しい時に、アダムの堕落が明らかとなった。夕暮れに、救い主はそれを克服された。」夕暮れという時間軸を骨格に据え、第二のアダムであるキリストが、第一のアダムの罪を贖ったと歌わせる着眼点は、彼の信仰の奥深さを表しているように思います。 創世記の3章は、人類の罪の始まりを克明に描いた聖書中最も暗い最悪の章です。しかし、この章は神の愛が散りばめられている福音の始まりでもあったのです。 「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。」罪を犯したアダムとエバに、裁くためではなく赦すために、昨日と変わることなく近づいてくださった神の足音、それはまさに福音です。 「主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』」罪が、神と人間との間に越え得ない断絶をつくり出したのは事実ですが、ここを見る限り、神の顔を避けたのはアダムの方であって、神はアダムを尋ね求め、呼びかけてくださったのです。ここに迷える羊を捜し求める良き羊飼いの原型があるのではないでしょうか。これも福音です。まだまだあります・・・。