土の器

宮本牧師のブログ

はじめの一歩

ヨハネ福音書4章に記されているサマリアリバイバルのことを覚えていますか。あの出来事は、福音が「ユダヤサマリアの全土で、また地の果てに至まで」広げられていくという観点から言えば、世界宣教のはじめの一歩であったと見ることができます。ことの発端は、サマリアヤコブの井戸のほとりにおけるイエスと罪ある婦人との出会いでした。命の水の源である主と出会った婦人は、水がめをそこに置いたまま町に走って行き、「さあ、見に来てください。この方がメシアかもしれません」と宣教の第一声を上げたのです。人々は町を出て、イエスのもとへとやって来ました。 その光景を見ながら、イエスが弟子たちに語られました。「あなたがたは、『刈り入れまでまだ4ヶ月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて(白くなって)刈り入れを待っている」と。ここでもイエスが見ていたものと、弟子たちの見ていたものとがちがっていました。弟子たちが見ていたのは、過去であり、偏見であり、差別でした。ユダヤ人にとってサマリア人は軽蔑の対象だったからです。しかし、イエスの目に映っていたものは、過去でも現在でもありませんでした。主にあって変えられていく、これからの彼女の姿であり、彼女を通してなされる異邦人宣教の始まりとリバイバルでした。だれがそんなことを想像できたでしょうか。 コリントの信徒への手紙一2章9節(口語)にこう書かれています。「しかし、聖書に書いてあるとおり、『目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた』のである。」最初の部分が大切です。私たちの思いや心に書かれているようにではなく、「聖書に書かれてあるとおり」実現するのです。