土の器

宮本牧師のブログ

神はわがやぐら

マルチン・ルターが宗教改革ののろしを上げたのは、1517年10月31日のことでした。当時34歳、彼は聖書の人であり、賛美の人でした。彼は一般市民が聖書を理解できるように、ラテン語からドイツ語に聖書を翻訳しました。また、だれもが歌える賛美歌集を出版し、礼拝に会衆賛美を取り入れました。そんなルター自らが作った代表作のひとつが「神はわがやぐら」です。この賛美は、当時のカトリック教会や既成組織には決して屈しない、暗黒の時代を戦った強いルターのイメージがあります。彼は、ビィッテンベルクの城門に95カ条の論題を貼りつけました。そして、帝国議会に呼び出されたとき、時のローマ皇帝カール5世の前で、「たとえ、この町の屋根の瓦ほどの悪魔が、私に襲って来ても私は退かない。聖書に明らかな証拠がある限り、私は決して自分の訴えを取り消さない。我ここに立つ。神我を助けたまえ」と恐れなく語りました。 しかし、よく調べると「神はわがやぐら」という賛美は、1529年、改革から12年後に作曲されています。当時、ルターは非常に重い病の中にありました。それが原因で、深刻な鬱状態にも陥ってしまい、彼は病の床で死を覚悟しています。「私は死と黄泉の門のすぐ近くにいた。キリストはまったく見失われ、私は自暴自棄と神に対する冒とくとに揺すぶられていたのである」と。しかもその頃、ビィッテンベルクの町がペストに襲われ、彼が教えていた大学は閉鎖され、多くの教え子たちや同労者たちが死んで行きました。悪魔的な力は、福音の喜びを消し去り、ルターの息の根までも止めてしまいそうでした。その時のルターには勝利の自覚も、自信も、ひとかけらもありませんでした。 あれほど活躍したはずのルターが、こんなに落ちぶれてしまうとは。何もかもはぎ取られて、拠り所となる信仰すら奪われていくような感覚のなかで、ルターは聖書を開きました。それが詩編46編だったのです。「神は我らの避けどころ、また力である。悩める時のいと近き助けである」(詩編46の2口語)。 この賛美は決して好戦的な宗教改革の凱旋の歌ではありません。恐れと不安の真ん中で、もう死ぬしかないと思ったかつての宗教改革者が、病の床で、御言葉を握りしめて細い声で歌った賛美なのです。 マタイは自分の胸を打ちながら「信仰の薄い者よ」と書きました。情けないでしょうか。しかし、神の信仰はいつもそのようなところから始まるのです。我ここに立つ。「神は我らの避けどころ、また力である。悩める時のいと近き助けである。」