土の器

宮本牧師のブログ

信仰が薄いから

物語ははここで終わりません。弟子たちはひそかにイエスのところに来て、どうして自分たちには悪霊を追い出し、子どもを救うことができなかったのかと尋ねます。イエスの答えはこうでした。「信仰が薄いからだ(Because you have so little faith)。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」 考えてみれば、マタイ自身は、変貌山に登った三人ではなく、麓に残された弟子の一人です。彼もこの現場に立っていました。「信仰が薄いからだ」と言われたのはマタイだったのです。私たちはマタイ福音書を学び始めてから、すでに何度かこの言葉に出会っています。波たける嵐の湖をイエスが静められたあの夜も、逆風に悩まされ漕ぎ悩んでいた舟の上で、湖の上を歩まれるイエスと出会ったあの夜も、弟子たちは聞いたのです。「信仰の薄い者たちよ」と。 福音書が記された時代、教会は迫害の中で信仰を問われていました。すでに指導者であったペトロもパウロも、この地上にはいませんでした。ちょうどあの山の麓のように、教会の中にも信仰を持ちにくい空気が漂っていたのです。変容の山から一転、麓はそんな空気に満ちていました。信仰の虚しさ、無力さが議論され、小馬鹿にされるような現実の中で、こどもの父親はその空気に呑み込まれてしまいました。マルコの記事を見ると、イエスに向かって「おできになるなら、私どもをお助けください」と口走っています。「おできになるのなら」と。ですから、彼がくり返し「信仰の薄い者たちよ」と言うフレーズを使うのは、叱られたと思ったからではなく、自らに言い聞かせるためだったのではないでしょうか。「信仰の薄い者よ。あなたの信仰はどこにあるのか。まだ信じないのか。ただ信ぜよ。信じない者ではなく、信じる者となれ」と。イエスの語調も、叱責の調子ではなく、「もっと信じてほしい。もっと信じればいいのに」という期待と願いを込めたものだったのではないでしょうか。イエスは言われます。「『できれば』と言うのか、信じる者には何でもできる。」だから、「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」 次の日曜日は、秋の教区聖会です。講師は、埼玉県さいたま市にある聖イエスベツレヘム教会の川越舜二牧師。この集会は信徒、求道者向けの特別集会になります。教会は初めて、これから教会に通いたいと言われる方は、11月11日のオープン礼拝にお越しください。(毎月第1日曜日に行っているオープン礼拝は、11月のみ第2日曜日になります。その日は、子ども祝福式と、礼拝後に召天者記念礼拝が行われます。)