土の器

宮本牧師のブログ

舟の中にいた人たち

「舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ。」 「舟の中にいた人たちは」とは、嵐を通過した人たちのことです。その人たちだけがイエスをリアルに礼拝することができます。礼拝は美しく崇高なものであるべきです。しかし、真実はこうです。頭のてっぺんから足の裏まで水浸しになり、寒さに震え、疲れ果てている、そんな嵐を通過した人たちの膝が主の前に折れ、額が地面に付く、そこにほんとうの礼拝があるのです。 「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた」とありますが、岩波書店が訳した聖書では「弟子たちは動転して言った。『化け物だ』」と、すごい訳になっています。ある註解によると「幽霊(化け物)」と訳されている言葉は「ファンタジー(幻想)」という意味を含むということなので、とにかく弟子たちにとって、海の上を歩かれるキリストは非現実のものにしか思えなかったということです。弟子たちにとって嵐は現実でした。打ちつける波も風も、彼らの疲労困憊も、そして恐怖も。そのような中で、キリストだけがまるで非現実のもののように思えたのです。さて、私たちにとってキリストは非現実のもの、ファンタジーにはなっていないでしょうか。そして、それでよいのでしょうか。 いいえ、キリストはファンタジーではありません。「イエスはすぐ彼らに話しかけられた。」弟子たちの悲鳴よりも大きな声がガリラヤ湖に響き渡りました。波と風の打ちつける轟音よりも、大きな、あるいはクリアなサウンドが聞こえてきたのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と。イエスは弟子たちの視覚ではなく、彼らが「ファンタジー」と言った世界から、言葉をもって近づいてくださったのです。「わたしだ」と。それは何よりも力強く、確かな存在を示す、聖書の中で神の名と呼ばれている言葉でした。 今日から全国中高生大会。名古屋教会からも8名のユースたちが参加させていただきます。これまでは私も「行ってきます」と出掛ける側だったのですが、今回は「行ってらっしゃい」と送り出す側に。変な感じもしましたが、大会の背後で熱い祈りをもって、中高生たちを送り出してくだる教会の先生方の気持ちがわかり、ありがたく思えました。