土の器

宮本牧師のブログ

笛吹けど踊らず

エスは洗礼者ヨハネについて語った後、ヨハネのことを正しく評価し、受け入れられなかった人々とその時代をこのように表現されました。 「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。 『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』」 「笛吹けど踊らず」という諺は、このイエス・キリストの言葉から来ているわけですが、たぶん、当時よく知られていたわらべ歌だったのでしょう。結婚式ごっこやお葬式ごっこをして、最初は楽しく遊んでいても、少し時間を過ぎると、もう飽きてしまい、宴会の笛吹き役の子供が一生懸命に笛を吹いても、だれも踊ってくれません。弔いの歌をうたっても、だれも泣くまねをしてくれません。ちょうどそれと同じように、ヨハネが現れて、悔い改めを迫っても、福音を宣べ伝えても、人々はそれに応答することはなく、物見高い様子で眺めているだけで、無関心な態度を決め込んでいました。それのみか、彼が非常に厳格な生活態度で断食していると「あれは悪霊に取りつかれている」と非難し、イエスが来て罪人の家に招かれ宴会の席に座っていると「大食漢で大酒飲みだ」と非難しました。結局のところ、彼らにはもとより信じようとする気がなかったのです。 そこで、今回、このテキストからお伝えしたいメッセージはこうです。福音の良きおとずれ(その笛)を聞いたなら、踊ってほしい。「踊るクリスチャン」というメッセージです。先週、宣教センターの集まりで岡山に出掛けていましたが、この春からセンターの次長ということで、新しい役を仰せつかりました。遅々として進まない、そして、もう長い間、低迷している日本の宣教が、センターの課題です。問題は山積みです。トラック百台でも足りないかもしれません。とても笑ってはいられない現実なのに、日本の多くのクリスチャンは、この事態に気が付いていないのか、無関心なのか、踊ることも、悲しむこともしていません。まさに「笛吹けど踊らず」です。そんな現実のただ中に立たせられた私たちに与えられた御言葉がイザヤ書35章でした。神の言葉を聞いてください。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ! 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。」ここに悲惨な現実に左右されることのない踊るクリスチャンの姿を見るのです。ハレルヤ! また一人、名古屋教会の初期の時代を支えてくださった信徒の方を天にお送りしました。今年、献堂30周年を迎える豊田教会の基礎にもなってくださった方ですが、昨晩、前夜式に参列させていただき、思い出をお聞きしながら、私も何度か励ましの言葉をいただいたことを思い出し、感謝の気持ちでいっぱいになりました。教会の開拓者たちの熱い心を受け継がせていただきたいと思います。