土の器

宮本牧師のブログ

もう少しすると

エスこそメシアであることを私たちに紹介した洗礼者ヨハネが、どうして今さら「来るべき方(メシア)は、あなたでしょうか?」と尋ねたのでしょうか。かつて、ライオンが吠えるように叫んだヨハネの何か心細そうな発言は、腑に落ちない感じがします。 いくつかの理由を考えてみましょう。まずは疑惑です。投獄されていたヨハネは、いつイエスが解放者として立ち上がり、自分を自由にしてくれるのだろうかと期待していました。しかし、事態は一行に好転しません。さすがのヨハネも焦燥と疑惑のうちに、弟子たちを遣わします。暗い牢獄の中で重い鎖につながれていては、心に迷いが生じても仕方ありませんでした。次に考えられる理由は、弟子たちのためであったということです。この質問はヨハネ自身のためではなく、弟子たちのためでした。この頃、すでにヨハネの勧めによってイエスの弟子となった者もありましたが、なかにはヨハネよりも、イエスの名声が高まることを面白くなく思っている人もあったようです。ヨハネは、彼らを直接イエスに出会わせるために、この質問を弟子たちに託しました。 さらに考えられるもう一つの理由は、確認のためです。自分の死期を感じていたヨハネが、生涯の終わりに、弟子たちのためにも、そして自分のためにも、イエスがメシアであると言うことを、イエスの口から直接確認したかったのです。だとすれば、ヨハネの伝言は疑問ではなく、告白であったと読むことができるかもしれません。「来るべき方はあなたなのですね。あなたのほかに、私たちはだれを待てばよいというのでしょう。あなたこそ来るべき方です。」 私たちも信仰がぶれたり、ひるんだりすることがあります。薄氷の上を歩くような、おぼつかない信仰です。しかし、神の言葉は私たちを励まします。「だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。『もう少しすると、来たるべき方がおいでになる。遅れられることはない。わたしの正しい者は信仰によって生きる』」(ヘブライ10の35〜38)と。 私たちも確信をもって生きることができますように。