土の器

宮本牧師のブログ

道草

物語の舞台は、ガリラヤ湖畔のカファルナウム。ヤイロという会堂長がイエスのもとに来て、危篤の娘のために今すぐ自分の家に来てほしいと願うところから始まります。そんなヤイロの家に向かう道すがら、奇跡が起こります。ヤイロは一刻を争い、家路を急いでいたのですが、イエスはまるで道草を食うかのようにそこに立ち止り、一人の婦人に話しかけられたのです。 マタイの福音書は「するとそこへ、12年も患っている出血が続いている女が近寄って来て、イエスの服の房に触れた」と言葉少なに彼女を登場させますが、マルコはもう少し彼女の素姓を紹介しています。「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」と。不快感と激痛に悩まされ、12年という長い歳月に渡って、医薬に頼り、治療に専念したのでしょう。でも、その効果はなく、ついに全財産を失ったのみか、病状は益々悪くなる一方。いまは経済的にも、肉体的にも、精神的にも破綻寸前のところにまで追いやられていました。「死ぬことができないので生きている」、それが彼女という存在だったのかもしれません。そんな彼女がイエスのうわさを聞き、群衆に紛れて、後ろからイエスの衣の裾にそっと触れたのです。 彼女の病気は、旧約聖書によれば、単なる婦人病ではなく、宗教的には不浄の病と見なされていました。ですから、人との交わりを一切禁じられていたのです。人に触ってもらうことも、人に触ることもできない。不快感や激痛にもまして、孤独が彼女を悩ませました。しかし、彼女はこのままで自分の人生を終わらせることはできませんでした。彼女は最後の望みをイエスに託し、イエスに近づいて行くのです。震える手を伸ばしながら。 先週末から、ある統計の分析を頼まれて、数字に取り組んでいました。数字の背後にあるものを読むことは簡単ではありません。視覚的に全体像が浮かび上がるように数字をグラフ化していきます。数字は厳しい現実を隠さずに伝えます。私は何度も目を閉じ、主を見上げて祈りました。「神さま、希望の数字を見させてください」と。