土の器

宮本牧師のブログ

ヨセフ目線

マタイは系図に続き、イエスの誕生にまつわる記事を記します。ルカはマリアに対する天使の告知を劇的に描きましたが、マタイはヨセフの目線でこの出来事を素朴なタッチで描きます。共通点もあります。イエス・キリストが処女であるマリアを通して生まれたという事実です。それは人間の常識を超え、自然の法則を破った奇跡の誕生であったということです。 新約聖書を開く人ぶつかる二つの障害があります。一つは系図です。なじみのないカタカナの羅列にうんざりし、愛想をつかしてしまうのです。そして、もう一つの障害が処女降誕という奇跡です。ここで多くの人は聖書をおとぎ話のように考えてしまうのです。もちろん私は処女降誕を信じていますが、それには二つの理由があります。第一は、神学的必然性からです。つまり、アダム以来罪の束縛に苦しむ人類を救うために、全く罪も汚れもない人物が現れる必要がありました。そして、処女降誕だけがそれを可能にする方法だったからです。第二に、処女降誕は人間の常識では考えられないことですが、神が創造主であることを認めれば、それを信じることは難しいことではありません。 しかし、もしすぐに信じられなかったとしても無理からぬことです。なぜなら、ヨセフとマリアの二人もにわかには信じられなかったのですから。 当時のユダヤの習慣では、婚約者は普通1年程度の婚約期間を経て結婚生活に入ることになっていました。しかし、その期間中にマリアが妊娠していることが発覚したのです。マリアが直接ヨセフにそれを告げたかどうかは不明ですが、マリアの妊娠を知ったヨセフはかなり落胆したにちがいありません。疑おうと思えばどのようにも疑うことができました。まじめで善良なヨセフにとって、それは耐えられないほどの悩みであり、気も狂わんばかりの日々であったにちがいありません。 彼には二つの選択肢がありました。律法の規定に従って、マリアを裏切り者として公衆の前でさらし者にするか、離縁状を与えて、婚約を解消し、密かに去らせるかのいずれかです。マリアのことを心から愛していたヨセフは、「マリアのことを表沙汰にするのを望まず、密かに縁を切ろうと決心」しました。その時です。主の天使が彼の夢に現れて言いました。「ダビデの子ヨセフ、恐れずに妻マリアを迎え入れない。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その名をイエスと名付けなさい。彼は自分の民を罪から救うからである」と。 映画「マリア(The Nativity Story)」からヨセフへの御告げの場面です。8分頃からがその場面です。ヨセフとマリアは親子ほど年の差があったようにも伝えられていますが、映画の設定はとても自然な感じです。若い二人の苦悩と決断の果て、ついにその夜を迎えるという感動の映画です。 今日から2月ですね。神様の祝福をお祈りします。受験生のみなさん、あとひと息。頑張りましょう。