土の器

宮本牧師のブログ

この世にあって、キリストの証人として

「世」という言葉は、ギリシア語の「コスモス」ですが、ヨハネ福音書に77回、特に13章から17章までに44回も出てくる言葉です。おおよそ3つの意味があり、文脈によってその意味を見分ける必要があります。第1に、この宇宙という意味です。第2に、宇宙の中で最も大切なこの地球に住む人間、私たち一人ひとりのことです。第3に、神に敵対する世界、勢力を指すこともあります。
神の選びが、聖書の教える人生観とするなら、神が支配する神の王国と「世の支配者」であるサタンが支配する闇の王国との対立は、聖書の教える世界観です。クリスチャンになれば、すべてがハッピーになるかと言えば、そうではありません。世の支配者が治め、多くの人が神を信じていない世界の中で、クリスチャンとして生きるのには、多くの戦いがあります。聖書を学び、クリスチャンとして成長すればするほど、葛藤を感じ、違和感を、不自然さを感じるのです。
神の願いは、私たちがこの世にあって、キリストの証人として生きることです。イエスの約束です。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。あなたがたも証しします。」ところで、私たち クリスチャンが陥りやすい2つの傾向があると言われています。「純粋の孤立」と「妥協の埋没」です。前者は、信仰の純粋性を守ろうとする余り、いつのまにか周りから煙たがられて孤立してしまうことであり、後者は、この世と上手く付き合おうと妥協する余り、いつの間にかこの世に埋没してしまうことです。しかし、神の願いは、私たちがこの世から孤立するのでも、埋没するのでもなく、「地の塩」として「世の光」として、ある時は目立たず、ある時は大胆に生きることなのです。

次の日曜は、宇治にある教会との合同聖会です。深草での集まりはもたれませんので、よろしくお願いいたします。