土の器

宮本牧師のブログ

継ぎ目のない重なり

19世紀を代表する大伝道者、D.L.ムーディの言葉です。「聖書のすべての書物が失われても、ヨハネ3章16節の御言葉さえあれば、人は救われる。」さらに彼は言います。「私は太平洋の水をインクにし、森の木々を筆にして、あの大空にこの御言葉を書いてすべての人に知らせたい。」(世界的なファストファッションストアのForever21のショッピングバッグの底に「John3:16」と印字されているというのは有名です。Forever21の社長さんは、韓国の熱心なクリスチャンということですが、ある意味、ムーディの言葉を実現していると言えるかも知れません。) 文脈から言えばイエスとニコデモとの対話から発展して語られた3章16節ですが、10節の「イエスは答えて言われた」というイエスの言葉はどこまで続くのでしょう。新共同訳聖書では、このカギ括弧が21節まで続きます。そこまでがイエスの言葉ということになりますが、もともとの写本には章も節もなければ、句読点や引用符もないので、イエスの言葉がどこまで続くかは、解釈と翻訳の問題になります。日本語訳の聖書のほとんどは15節でカギ括弧を閉じ、16節からはこれを書いているヨハネ自身による福音の告知として理解されています。 このイエスの言葉と著者の福音の告知との「継ぎ目のない重なり」もヨハネ福音書の特徴です。ニコデモに対するイエスの答えを伝えるヨハネの筆は、いつの間にかすべての人に語りかける福音の告知へと移っていくのです。考えてみれば、イエスのすぐそばで、イエスの言葉を聞き続けたヨハネが、半世紀以上の間、多くの苦しみと試練の中で、それを語り続けているうちに、語っているのがイエスの言葉なのか、自分の言葉なのかわからないほど、継ぎ目がないほど重なりあったとしても不思議ではありません。あえて区切るとするなら、やはり15節で区切ればよいのかもしれません。イエスが語られたほんとうのヨハネ3章16節とは、14節、15節であって、それをヨハネが誰にでもわかるように言い換えたのが、16節だったのでしょう。それはヨハネがどうしても伝えたかったキリストの心だったのです。 今週も大切なことを大切に。