土の器

宮本牧師のブログ

永遠の命に生きる希望

元旦礼拝から、今年の御名にちなんで、ヨハネ福音書の11章、ラザロの復活の奇跡を改めて学んでいます。先週は旧約聖書を引用して、この奇跡の背景に聖書が示す福音、氷をとかすドラマが語られているというメッセージをお伝えしました。昨日の礼拝では最初に、これまでのメッセージを踏まえて、「偉大な生涯の物語」から、ラザロの復活のシーンをダイジェストで見ていただきました。 聖書の記述通りではありませんが、ラザロの死を悼む人々、イエスの涙と息遣い、墓の前での祈り、ラザロを呼び出される声、墓から出て来たラザロ、それを見た人々の驚きと興奮、その喜びを告げる人々。 印象的なのはラザロの墓が、そびえ立つ大きな岩山の一部になっていることです。私には、あの岩山が、まるで難攻不落の死の王国を象徴しているように思えました。 誰も死を避けることはできません。しかし、多くの場合、人はできるだけ死を避けようとします。ホテル、マンション、駐車場、もちろん病院には、死を想起させる4号室や4階がないところがあります。苦しみに通じる9という数字も避ける場合があるようです。それらは忌み数と呼ばれ不吉な数字とされています。迷信と言いながら、その影響は小さくありません。しかし、真実の神であり、永遠の命であるイエス・キリストの出現は、人類の歴史、死の問題に根本的な変化をもたらしました。イエス・キリストの出現までは、人間にとって死は、人生に終止符を打つもの、人間存在の崩壊を意味していましたが、キリストの出現は、人類に永遠の命と復活の希望をもたらしたのです。 聖書はこう言っています。ローマの信徒への手紙5章、「一人の人(アダム)によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んできたように、死はすべての人に及んだのです。・・・しかし、神の恵みの賜物は罪とは比較になりません。・・・罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」 蛇に睨まれた蛙のように、死の前に為す術もなく立ち尽くし、いつか死に呑み込まれていく私たちのために、イエス・キリストは十字架の死によって死を滅ぼし、私たちにも永遠の命に生きる希望を与えてくださったのです。 今年、あの渇ききったネゲブ砂漠に、死の世界に、命の川の流れを導き、氾濫させるかのように、主が私たちを罪と不信仰、そして死の力から解き放ち、よみがえらせてくださいますように。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。」「それは荒野に水が湧きいで、砂漠に川が流れるからである。」「この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。」 今日は京都での聖会です。 今週も大切なことを大切に。